子供たちの聖地 3

 アテナイ市を囲む城壁の門を抜けて、春の夕暮れの野道を、6歳のティリオンは、腫れた右足でびっこをひきながら歩いていた。


 肩までの銀色の髪のかかる左頬も、殴られて赤く腫れ上がっている。


 唇も切れて、血がにじんでいた。


 美しい女の子のような顔立ちだけに、その暴力の跡はあまりに痛々しかった。


 薬の袋をちいさな手で胸に抱え、うつむいて歩くティリオンに、ふっと大きな影がさした。


 顔を上げ、目の前に立つ長いマントの男に、思わず微笑むティリオン。


「あ、おじさん!」


 それから急に、はっとして顔色を変え、あとじさった。


 かまわず、マントの男は屈み、大きな手でティリオンの肩を引きよせた。


 赤く腫れ上がった頬を、そっと撫でる。


 低い優しい声。


「可哀相に……また殴られたのか?」


 黙ってティリオンは目を伏せた。


 薬の袋を、ぎゅっとかたく抱きしめる。


 男の手が、今度はティリオンの腫れた右のくるぶしにのびた。


「アッ!」


 痛みに身をすくませるティリオンを抱くようにして、男は、熱を持って腫れた小さなくるぶしを調べた。


 さっき医師の父親に蹴られ、踏みつけられたくるぶしを。


「これはひどい! こんな足でこれからどこに行くんだ?」


 薬の袋に目をとめた男の声は、いきどおりをさらに強めていた


「また薬の配達か。


 アテナイ一の医の名家、エレクテイス家の嫡子がなんてことだ!


 それもまた、供のただひとりもつけずにアテナイ城壁の外まで、こんな夕暮れの時間にだ。


 相変わらず奴隷以下の扱いをして、やはりエレクテイス家の当主は、私の言ったことなど聞く耳もたんというわけだな」


 男はそのまま、小さく細いティリオンを抱き上げて歩きだそうとした。


「もういい、ティリオン。


 もうあんな所に帰らなくてもいい。


 さあ、おじさんと行こう」


 ティリオンはあわてて首を振り、あらがった。


「だめ! 早く配達して戻らないと、僕のかわりに母さまが……


 母さまが叩かれるかもしれない!」


「ティリオン……」


「僕は大丈夫です、おじさん。


 こんなくらい平気です。すぐ治ります」


「しかし……」


「お願い、下ろして。


 僕、帰って、母さまと一緒にいなくちゃ。


 亡くなったおじいさまとも約束したんです。


 僕は男なんだから、早く大きくなって、大事な母さまを守れるようになります、って」


「…………」


 長いマントの男はゆっくりとティリオンを下ろした。


 痛みをこらえて両足をふんばって立ち、せいいっぱいの強がりを見せる小さな子供。


 片膝をついた男は、澄んだ緑色の目で、いたいけな子供をじっと見つめた。


 そんな男を、同じ緑色の目で見つめ返したティリオンは、以前にも男の目を見て感じた不思議な感覚を味わっていた。


 まるで自分の緑色の目を、鏡に映しているような感覚を。


 急に怖くなってティリオンは一歩さがった。


 済まなさそうに言う。


「ごめんなさい、おじさん。


 いつも親切にしてもらって、助けてもらって。


 でも……父さまが、おじさんともう会っちゃいけない、って、声をかけられても返事をしたらだめだ、って。


 僕は、なぜ? ってきいたんですけど、あの……そしたら……父さまが……」


 黒褐色の髪の下、すっきりと整った男らしい顔をゆがめ、男は苦渋に満ちた声で言った。


「それで、今日も殴られたというわけか」


 再び首を振る、ティリオン。


「いえ、そうじゃないんです。


 これは僕の仕事が遅かったので、怒られたんです。


 僕は、馬鹿で、のろまで、悪い子なので、父さまは怒るけれど、もっといい子になれれば、父さまも怒らなくなるかも……


 好いて……くれるようになるかもしれないから、いつか。


 でも……あの……おじさんとは、僕……もう……会えないんです。


 ごめんなさい……ごめんなさい」


 心から申し訳なさそうな顔であやまる、ティリオン。


 男は、重い吐息をついた。


 ティリオンの銀髪の頭をそっと撫でる。


「あやまらなくていいんだよ。


 それにおまえは、決して悪い子なんかじゃない。


 賢いし、素直で優しい、とてもいい子だ」


 それから男は、眉間に皺を寄せた厳しい表情で黙考し、やがて小さく言った。


「わかった。


 もう声はかけないとしよう」


 男の、ひどく苦しく悲しげな様子に、さらに罪悪感を感じたティリオンが言う。


「本当にごめんなさい、おじさん。


 この間だって、僕が道で具合悪くなってたら助けてもらったし、配達の薬を無くした時だってかわりのをくださったのに。


 それから、それから、いっぱい助けてもらって……


 いつも良くしてもらったのに、会えないなんて、ほんとはこんなこと言いたくない。


 でも父さまが、あのおじさんは悪い人だから……」


 言葉を途切らせ、青くなって口を押さえるティリオン。


 そんなティリオンを、男は耐えきれぬように抱きしめた。


「もういい、わかった!


 すまない、ティリオン。おまえを苦しめるつもりは全くなかった」


「おじさん……」


 いたわるように背を撫でられ、暖かい大きな体に抱かれて、ティリオンは泣きそうになった。


 ティリオンには、このいつも助けてくれる『優しいおじさん』が、父親の言うように悪い人には思えなかった。


 本当はこのまま『優しいおじさん』の胸で思いっきり泣きたかった。


 父親に、いつも無理難題を押し付けられ、わけのわからない暴力を振るわれるつらい毎日を訴えて、大声で泣きたかった。


 けれども、それをしてしまったら、ぎりぎりで支えている強がりが崩れてしまいそうな気がした。


 小さな手で、男の体をそっと押す。


「ごめんなさい。本当に僕、もう行かなくちゃ」


 男はティリオンを放し、泣き笑いのような顔で頷いた。


「……そうだな。あまり遅くなると危ない。


 早く行っておいで」


 男に頷き返して、歩きだすティリオン。


 ずっと遠くなってから振り返っても、男は同じ場所で佇み、ティリオンを見送っていた。

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