第六章 それぞれの想い
それぞれの想い 1
プラタニスタスというのは、スパルタのレスリング場のことである。
リングロープのかわりに、二つの橋のかかった
法に規定された
いずれ劣らぬたくましい筋肉を誇示して橋を渡り、汗と砂にまみれて戦う、逞しい若者たち。
スズカケの木の回りに陣取った、観客、兼、試合の順番待ちの者たちが、やかましく声援と野次をとばす。
会場は若さと熱気にあふれ、人間の蒸気が立ちのぼっていた。
そんな会場の片隅で、膝を抱えて座ったクラディウスは、何十回、いや、何百回目かのため息をついた。
試合に熱狂する若者たちの声も、彼の耳には全く入らず、頭の中にはあの日の出来事が幾度も幾度もくり返されるばかりだった。
そうあの、美しい女のような顔をしたアテナイ人の男を
◆◆◆
アフロディア姫は倒れた男のそばにかがみこんでいた。
大切な姫ぎみの無事に、クラディウスは、ほっと安堵の笑みを浮かべながら駆け寄った。
が、振り向いたアフロディアの激しい怒りの表情に立ちすくみ、身を固くした。
どうして怒っているのかは分からなかったが、彼は、アフロディアがこういう顔をした時いつもする通り、殴りかかってくると思ったのだ。
けれど、アフロディアは殴りかかってこなかった。
かわりに、唇の両端が下がってひくひくと震え、目にいっぱい涙があふれだした。
こんなアフロディアを見たのは初めてだった。クラディウスは愕然とした。
「姫、どうなさったのです?」
「馬鹿っ! なぜ
馬鹿っ! もうおまえなんか嫌いだ!!」
「ええっ?! あの、俺は……」
「何をぼさっとしてる! 早く手当てしろ、早く!
こんなに血が出てるんだぞ、早く!!」
涙声でアフロディアに言われ、クラディウスはあらためて自分が
結わえが解け、大きく地に広がった見事な銀髪。
草に埋もれた、青ざめた美貌の横顔。
血に染まった大きすぎる衣からは、痛々しいほど痩せて細い手足がのぞいている。
一瞬、男が射落とされた美しい白い鳥に見え、クラディウスの胸にもわずかに痛みがよぎった。
そこへアフロディアが怒鳴る。
「早く! 早くっ! 死んでしまうじゃないかっ!!」
やむなく、追いついてきた兵に手伝わせて、クラディウスは男から矢を抜き、血止めをしてやった。
その間にアフロディアが、馬車の調達を別の兵に命じているのを聞きつけ、びっくり仰天する。
「姫、一体、何をなさるつもりです?」
アフロディアの瞳は、まだ激しい怒りをともしてクラディウスを見た。
「もちろん、こいつをスパルタ王宮に連れて帰るのだ。
こんなところに置いておいたら死んでしまう」
「そんな! 村に運んでおけばいいではありませんか」
「あんな所など、全然だめだ。
ちゃんと城の
クラディウスは、訳がわからなくなって首を振った。
「姫、姫、どうしてそこまでしなくちゃならないんです。
こいつはアテナイ人で、反乱者で、敵なのですよ。
もともと殺すつもりだったんだ。
死んだってかまわないじゃありませんか」
ぱん! とクラディウスの頬が鳴った。
ぎく、と兵士たちが体をこわばらせ、それから、見て見ぬふりをした。
アフロディアは、打たれた頬を押さえて呆然とするクラディウスの腕をつかみ、ぐいぐいと引っ張っていった。
ふたりの話が兵士たちに聞こえない所まで来ると、互いの息がかかるほど接近した状態で、クラディウスの胸をひとさし指で強く突いた。
「おい! いいかげんにしろよ、クラディウス。
「………」
「どうなんだ、嘘だったんだろうがっ!」
「………はい」
不満げに、しぶしぶ認めるクラディウス。
たたみかけるように、アフロディアが言う。
「初めから反乱がないんだったら、反乱者などここにはいなかった。
そうだな?」
「そう……かもしれません。
しかし、あいつはアテナイ人で、アテナイ人は敵で……」
「かもしれない、じゃない、いなかったんだ!
反乱はないし、反乱者もいなかった。
アテナイ人もだ。アテナイ人なんかもいなかった。
そこのところ、兵どもにも
「そんな!!」
泡を食って抗議しようとしたクラディウスを、強く睨みつけて黙らせ、アフロディアは脅したのである。
「ここには反乱者も、アテナイ人もいなかった。
いいか、何もいなかったんだ!
もし、スパルタ市内に戻って余計なことを報告したり喋ったら、おまえが奴隷に、ペリクレスがいるー、なんぞとからかわれて、大恥をかいたことをばらしてやるからな」
「………」
「どうだ、わかったな、誰にも言うなよ」
「………」
黙って横を向き、
その二の腕を両手でつかんで、揺すぶるアフロディア。
「わかったのか? どうなんだ?」
「………」
「クラディウス、絶対に喋らないと誓え!」
「………」
「クラディっ!!」
「………」
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