子供たちの聖地 6

 次にティリオンが目覚めたのは、自分の部屋だった。


 ひどく頭が痛かった。


 重く苦しいものが、頭にぎっしりと詰まっているようだった。


「あたま……いたい、いたいよ、とてもいたい。


 母さま、母さま、どこ?」


 小さなティリオンは母を呼び、返事を待った。


 耳をすますと、誰かの話し声がする。


 喧嘩をして、怒っているような声。


 (大変だ。


 また父さまがお酒を飲んで、母さまを怒っているのかもしれない)


 ベッドから起き上がろうとすると、白いものが目にうつった。


 ティリオンは、しいたげられた傷が手当てされ、体のあちこちに包帯が巻かれていることを知った。


 (誰が手当てしてくれたんだろう? 


 おじいさま?


 ううん、おじいさまはもう、亡くなった。


 母さま?


 でも父さまは、母さまには決して薬部屋くすりべやには入らせないし。


 そういえば僕、どうしてここにいるんだろう?


 たしか薬を配達に行って、それから……)


 そろそろと床に足をつけると、包帯の巻かれた右足首に、ずきり、と激しい痛みが走った。


 とたんに、恐しい光景がよみがえってティリオンを襲った。


 つかみかかってくる手と手。嗤い声。


 脱がされる服。悲鳴。押さえつけられる体。


 逃げようとしても、大きな手でまた捕まえられ、どうしても逃げられない恐怖。


 銀髪の頭を両手で押さえ、小さく悲鳴をあげて、ティリオンは床に突っ伏した。


 脳裏には、恐怖の体験が黒く渦巻いていた。


 自分を捕まえようと手をのばしてくる、緑色の目をした男の顔を中心にして。


「いや、いやだ! やめて!……違う! 嘘だ、いやだ!」


 無意識のうちに、床に頭を打ちつける。


 何度も、何度も打ちつけると、額に血がにじみ意識がぼうっとなって、怖いことを思い出せなくなり、少し楽になった。


 そのまま胎児の姿勢になって固く目を閉じ、震えながら横たわる。


 エレクテイス家当主の父親によって、毎日繰り返されてきた虐待。


 ならず者らによる、金銭強奪と拉致暴行未遂。


 優しかったおじさんまでがその恐ろしい場所にいて、逃げようとする自分を捕まえる。


 次々と襲いくる衝撃と暴力と恐怖に、6歳の小さなティリオンの心と体は、ずたぼろになっていた。


 (これは怖い夢……全部怖い夢なんだ。本当のことじゃない。


 もうすぐ母さま……来てくれる……僕を起こしてくれる。


 これは全部、怖い夢だから……


 母さま、早く来て、僕を起こして……僕の優しい母さま)


 階下から、獣のような叫び声。


 それから女性の悲鳴。


 ガチャン、と陶器の壊れる音。


 目を見開くティリオン。


 (あれは、母さまの声だ)


 ティリオンは必死で起き上がり、よろめきながら歩きだした。


「母さま、母さま……たすけて……たすけて……こわい……こわいよ…」


 自室の扉を抜け、壁に手をつきながら、廊下をのろのろと進む。


 傷ついた体は、思うように動かなかった。


 腫れ上がった右足は痛み、床に打ちつけた頭は朦朧もうろうとしていた。


 何度も、カクッ、と膝が折れて倒れた。


 一度倒れると、なかなか起き上がれなかった。


 小さい体は弱り切っていた。


 最後は這うようにして、やっと階段にたどりついた。


 貴族エレクテイス家の広い階段を、手すりにすがりつきながら、母を求めて必死でおりる。


 一歩、一歩、また一歩。


 恐怖の体験に震え、母に救いを求める6歳の幼子おさなごに、より一層恐ろしい光景が待っているとも知らず、おりていく。


 なんとかおどり場まで到達し、階段の手すりの間から下に見た、一階の広間。


 そこには、血の惨劇があった。


 外扉につながる、一階の広間。


 あたりに飛び散った、大量の血。大理石の床は、血の海。


 その血の海に、かっと見開いた目を血走らせ、血に濡れた歯をむきだしに食いしばって、見るも恐ろしい形相で横たわっているのは、エレクテイス家の当主のティリオンの父親。


 そのすぐそばに、血まみれの短剣をもって屈みこんでいるのは、長いマントのおじさん。


 おじさんの両手は、血だらけだった。


 おじさんから少し離れた場所に、重ねた両手を胸にあてて立っているティリオンの母、タラッサの白いドレスも血で赤く染まっている。


 そして母が、おどり場で手すりにすがりついて広間を見ている我が子に気づき、凄まじい悲鳴を上げた。


 気を失って倒れる母。


 血の短剣を捨て、駆け寄って、血まみれの手で倒れた母を抱き起こす、おじさん。


 母を抱いたおじさんの鋭い視線が、おどり場のティリオンに向けられた。


 ひびのはいっていた何かが、幼い心の中でついに砕け散った。


 全身から力が抜け、ティリオンは落ちた。


 階段を下まで落ち、それでも止まらずティリオンは落ちていく。


 狂ったようなおじさんの叫び声。


 深く、深く、落ちていく。


 心は深く落ちていく。


 砕けて、ばらばらになって、落ちていく。


 どこまでも落ちていく……


 暗闇。


 心が砕けたティリオンには、意味を持たない途切れ途切れの、


「……すまな……後は頼む……オレス……」


「……熱がずっと……危険な状態……」


「……裁判所にお連れするなど、無理です……死んでしま……」


「……何としてでもお救けしてくれ……テオさまにこれ以上……」


「……折角助かっ……母親を呼ぶばかり……頭がおかしくなって……」


「……髪まで銀……ペリクレ……生まれ変わりだと皆喜んで……未来の氏族長……惜しいこと……」


「……皆には悪いが、生きてさえいてくれれば、私はそれでもかまわないと……」

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