幕の内側 6

 食堂中の人間が固唾かたずをのんで見守るなか、かなりたってから、ようやくなんとか……


 双子に引っぱり上げられ両側からしっかり抱きかかえられる格好で、かろうじて立つフレイウス。


 そしてフレイウスが、クラディウスを見た。


 ぞくりとして思わず一歩、クラディウスがあとじさる。


 蒼白のフレイウスの顔は、絶望、という名前以外の何物でもなかった。


 光を失ったあおの瞳は、絶望の中にぽっかりとあいた、虚ろな恐ろしい空洞のようだった。


 かすれた息だけの、声とはいえぬ、音。


「ど……こに?」


「え?」


「ど……こ……のやまに……これが?」


 フレイウスの質問の意味をやっと受け取ったクラディウスが、焦って、適当な方向を指差す。


「ああ、たしか……あっちの方の山、だったかな?」


 クラディウスがいいかげんに指した方向に、フレイウスはのろのろと頭をめぐらせた。


 背筋がぞっと寒くなるような、虚ろな声でつぶやく。


「………あっち」


 そのまま、フレイウスは双子にかかえられ、よろよろと食堂を出ていった。


 ティリオンの髪で作られた銀の飾り紐を、胸にしっかりと抱きしめて……


 幕の内側に戻ってきたクラディウスに、ティリオンとアフロディアが問いかけの目を向ける。


 クラディウスが親指を立てて頷くと、ほっと肩の力を抜いたティリオンが、キタラを奏で始めた。


 美しい調べが流れるなか、幕の内側の隅で、クラディウスとアフロディアがささやき合う。


「うまくいったか?」


「はい、こちらが祝杯に誘うまでもなく、自分から出ていってくれました」


「そうか、良かった!


 こっそり仕入れた酒も、今回は使わなくて済んだわけだな」


 アフロディアの琥珀の目が、クラディウスをすがるように見る。


「じゃあ、今夜の演奏の時は、また剣の稽古に連れ出すか、それがだめならクラディ、おまえが奴を耳元で誘って、奴をうまく飲みに連れていけるかどうかだが……」


 難しい顔になる、クラディウス。


「それなんですが……


 俺は、酒を飲んだことがないのでやっぱり自信がありません」


「そうだな……私も、酒のことはよくわからん。困ったな」


「最後の手段になりますが、楽士が病気になったということにして、今夜からの演奏はとりやめる発表をしたほうが確実で安全でしょう」


「そうだな、そうしよう。


 会議の前にもかなり演奏してるし、兄上さまが戻ってこられても、これなら許してくださるだろう」


 安心したのか、アフロディアの声はうきうきと弾みはじめていた。


「ありがとうクラディウス。


 これでティリオンは自由になれる。


 みんなおまえのおかげだ、本当にありがとう!」


「……いえ、いいんですよ」


 しかしクラディウスの心は、作戦の成功に素直に喜べなかった。


 さっきのフレイウスの、絶望の表情と虚ろな目が、彼の胸に強く焼きついていた。


 (どうして奴は、あんなにショックを受けていたんだろう?


 あれでは、まるで、まるで……とても大切な、心の底から大事にしていた者を失ってしまったような感じじゃないか)


 後味あとあじの悪さを噛みしめ、眉をひそめてクラディウスは、キタラを奏でるティリオンを見つめた。


 (だいたい、あのフレイウスとティリオンはどういう関係なんだ?


 琴の音を聴いたり、切られた髪をちょっと見ただけですぐにわかる、なんていうのは、とうてい普通の関係ではないぞ。


 今度、姫さまのいないところで、ティルの奴を締め上げて吐かせてやらねば)


 ティリオンの美しい楽の音に、さっきの一幕ひとまくで動揺していた使節たちも落ち着いてきたようだった。


 アフロディアとクラディウスは、今夜からの演奏とりやめ発表のタイミングのことを考えていたが、間もなくそれは、案ずる必要のないことになった。


 その日の午後の会議で、アゲシラオス王とテバイの使節団長エパミノンダスが激しい口論となり、他のポリスの使節団も巻き込まれて、平和会議は、単なる大喧嘩おおげんかの場となってしまったのである。


 もちろん、アゲシラオス王とエパミノンダスが平和会議をぶち壊すために、あらかじめ示し合わせて、わざと喧嘩をしたのだ。 


 あげくの果てに、会議を仕切るアゲシラオス王が、一方的に平和会議の閉会をせんしてしまった。


 こうして、一度は成功するかに思われたギリシャ全体平和会議は決裂し、再び戦雲の嵐がギリシャを吹き荒れることになる。


 悲劇は、着実に近づいていた。

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