美しき逃亡者 7

 白い部屋。舞い散る手紙と、血しぶき。


 ティリオンに剣で斬られ、血だまりに横たわる男。


 男は、ペリクレスの子孫。アルクメオン家の現当主。


 アテナイの10人の将軍ストラデゴイを束ねる、現職の将軍長アテナイ・ストラデゴスであり……


 ティリオン・アルクメオンの父親。


 深く傷つき、血だまりの中から、男はティリオンに手をさしのべている。


「許してくれ……ティリオン。


 本当は隠したくはなかった……だが、おまえを愛していたから隠さなければならなかった。


 私は……おまえを失いたくなかったのだ」


 悲鳴するようにティリオンが叫ぶ。


「今さらたわ言を言うなっ!!


 母に会わせる、などと言って、おまえは……おまえたちはみんな、ずっと私を騙し続けてきた。


 11年間も!  こんな、こんな、にせの手紙まで使って……


 絶対に許せない!」


「すまない……すまない、どうかこの父を許して……」


「父だと?!


 おまえなど私の父ではない!


 私の父はおまえが殺したんだ!


 6歳のあの時、私は見た。


 おまえが血のついた短剣を持って、エレクテイス家当主だった父のそばに屈みこんでいたのを。


 そして私が6歳のときに、すでに母は自殺していたのに、嘘をつき、母が生きているかのように装って私を騙し続けた。


 私を利用して、エレクテイス家の財産横領を目論もくろんだからだ!」


「違う……違う……おまえを利用するなど、そんなことはしてない……


 そ、それに、本当におまえの父は、この私……」


 そう訴える男は、髪の色も顔だちも、母親似のティリオンとは似ていない。


 だが、その澄んだ緑色の瞳。


 アルクメオン家独特の、透明度の高いエメラルド色の瞳は、いくらティリオンが否定しようとしても、その血筋を証明するかのように父子はそっくり同じだった。


 苦痛に満ちた声で、緑色の目の男は、言う。


「ティリオン……信じてくれ……


 おまえを愛している……おまえまで失いたくなかっ……た」


 ティリオンは、脳裏のうりの情景をかき消そうと激しく首を振った。


 話好きの村長は、まだ続けていた。


「じいさんよく言ってたなあ。


『銀の髪は栄光に輝き、鋭き緑の瞳はたかのごとく総てを見はるかす。

 名将ペリクレスさまの、軍神のごときりりしきそのお姿!』


 ってねえ。


 あれ? そういや先生も、綺麗な銀の髪と緑の目をしてらっしゃいますな。


 ははあ、じいさん、それで昔のことを憶いだしたらしいな。なるほどー」


 村長はひとりで納得していた。


 ティリオンは手を老人に奪われたまま、力なくうなだれた。


 涙をこらえて目を閉じる。


 (ペリクレス……アテナイ・ストラデゴス。


 そして、アルクメオン家と氏族組織。


 それら総てを断ち切るために、苦しい旅を続けてここまできたのに。


 まだ、のがれられないのか……)


 ティリオンの異常な様子に、かみさんが顔をしかめて村長をつついた。


 鈍感どんかんな村長は、えっ、と不思議そうな顔をしたが、訳のわからぬままに、とりあえず笑ってごまかすことにしたらしかった。


「はははははっ、こいつはとんだ昔話むかしばなしをしちまった。


 いやぁ、あのペリクレスさまに会ったなんて、嘘か本当かわかりゃしません。


 ペリクレスさまが元気で生きてらした時代なんて、50年くらいも昔のことなんですから。


 わしだってまだ生まれてないですよ。


 じいさん、年とって、すっかりぼけちまってるしね。はははははっ」 


 そのあと、ティリオンの指示に従って、夫婦は老人を寝室に運んだ。


 意地悪な末息子は、いつの間にかいなくなっていた。


「ありがとうございました、先生!


 どうかじいさんのためにも、もう少しここにいてやってください。


 お願いします!」


 すがりつくようにして村長に頼まれ、患者の容体もかんがみたティリオンは、明日の出発を断念せざるをえなかった。


 実際は、一刻も早くここを出たいと思うほど心乱されていた。


 けれども、アテナイ医学アカデミーに学んだティリオンの医師としての責任感が、それを許さなかったのである。


 (せめてあと一日は、この老人をていてやるべきだろう。


 心臓の薬も調合して置いていってやりたい。


 一日くらいは仕方ないか)


 まさしく、この時のこの決断によって、さらに自分が数奇すうきな運命の輪のなかに踏み込んでしまったことを、ティリオンはまだ知らない。


 そして翌日、スパルタ軍が村にやって来た。

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