美しき逃亡者 6 *

 焦った村長の声に、すでに患者をる医師の表情になっているティリオンが、頷く。


「おかみさん、お湯と布をお願いします!」


と叫び、ぱくぱくあえぐ老人を床に横たえようとする村長を押しとどめた。


「座らせているほうがいいのです!


 暖炉をもっと燃やして、部屋を暖めて下さい」


 老人の喉と胸をマッサージし、しっかり者のかみさんが手早く持ってきた湯で布を絞り、服の前をはだけさせ、暖かい布を心臓の上にあてる。


 村長は末息子に手伝わせ、暖炉にたきぎをどんどん放り込んだ。


 幸いにも、老人の発作は間もなくおさまった。


 安堵した家族の見守る中、ティリオンは、固い石の床に片膝をついた。 


 右手で、老人のしなびた手首を持って脈をとり、左手を曲がった背中に回して、優しくとんとんと叩く。


 心臓を楽にさせるため、安心させるように穏やかに話しかける。


「もう大丈夫ですよ。たいしたことはありません。


 静かにしていれば、すぐ良くなりますからね」


 すると老人は、垂れた白い眉の下からティリオンをじっと見つめた。


 常になく、はっきりした声でこんなことを言いだした。


「いよいよアテナイにお帰りになるのか? ペリクレスさま」


 ティリオンの体が、びくっ、と飛び上がるように大きく動いた。


 エメラルド色の目が大きく見開かれ、形のいい唇が驚きで開いていた。


 脈をとっていた老人の手を、取り落としたのにも気づかなかった。


 心臓発作の老人の顔色より蒼白になったティリオンに、村長夫婦が顔を見合わせる。


 うさんくさそうな顔でのぞきこんでいた末息子の目が、ぎらりと光る。


 数瞬のち、はっと我に返ったティリオンが、取り落とした老人の手をすくい上げた。


 どうしたのか、と不審げにみつめる3人の手前、脈をとり続けようとする。


 ところが、思わぬ強い力で、老人に手を、ぐいと握りしめられ、引き寄せられてしまった。 


 老人はティリオンの手を握りしめ、目に涙を浮かべていた。


「ああペリクレスさま、あなた様さえいらっしゃれば、アテナイは、アテナイは……


 かつてのように、ギリシャの首位によみがえりましょうなあ。


 アテナイにお帰りになるなら、どうかわしも一緒にお供させてください。


 また、お役にたちますぞ」


 村長が横から、言い訳じみた口調で言った。


「気にせんでくださいよ、先生。


 こんなこと大きな声じゃ言えませんが、じいさん困ったことに、アテナイびいきでしてね。


 若いころ、あの英雄ペリクレス・アルクメオンさま、に会った、と言うんですよ。


 もちろん先生はアテナイの英雄、ペリクレスさまを御存知でしょ?」


 こわばった顔のまま、かぶりを振るティリオン。


 発作のおさまった父親の様子に気持ちが緩んだらしく、村長はぺらぺらと喋りはじめた。


「そうですか?


 アテナイのペリクレスさま、といえばそりゃあ有名なんだがな。


 アテナイのペリクレスさまってのは、昔に、アテナイの将軍長を務めて、アテナイに黄金時代をもたらしたお人なんですよ。


 ペリクレスさまの時代は、今みたいにスパルタじゃなく、アテナイが全ギリシャ・ポリスの頭領とうりょうだったんです。


 その英雄ペリクレスさまにお会いした、そしてお仕えした、っていうのが、うちのじいさんの自慢でしてね。


 おかげでわしは小さいころから、耳にたこができるくらい、英雄ペリクレスさまの昔話むかしばなしを聞かされたもんです。


 ペロポネソス戦争の途中で、ペリクレスさまが疫病えきびょうで亡くならなきゃ、アテナイはスパルタに勝ってたはず、だとか。


 代々アテナイ・ストラデゴス職を務める、名門貴族アルクメオン家、の出身でらっしゃるとかねえ。


 ああ、アテナイ・ストラデゴスってのは、アテナイの10人の将軍さまを束ねる、一番えらい将軍長さまのことらしいです。


 民主制、とかいうアテナイには、王さまはいないけど、その将軍長アテナイ・ストラデゴスさま、ってのが一番偉くて、多分王さまみたいなもんなんでしょう。


 ところで先生は、アテナイに行かれた事はおありで?」


 歯をくいしばり、黙って首を振るティリオン。


 彼の脳裏には、自宅だったアルクメオン家のやかたでの、事件の夜の情景がよみがえっていた。



――――――――――――――――*



【※アテナイ・ストラデゴス とは、役職名です。都市国家アテナイの、10人の将軍たちを束ねる、将軍長のことです】

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