氷の剣士 8

 さらに服が破り取られ、あらわになった白い胸に男の手がかかる。


「やめろ、やめろ、やめろっ、やめ……


 い、いや、いやっ、いやあ――っ、きゃあああ――っ!!」


 アフロディアはついに悲鳴を上げた。


 男の力は強く、どうあがいても逃げられぬと分かると、恐怖で体がしびれ、だんだん動けなくなってゆく。


「いや、いや! やめて!!」


「むむむむ……」


「いや、いや、いやあ――っ!!


 助けて、助けて、たすけて!


 だれかたすけて――――――っ!!!」


 最大の危機におちいり、助けを求めるアフロディアの脳裏には、ひとつの顔。


 それはなぜか、ずっと彼女を保護し続けた兄王の顔でも、頼りがいのある幼なじみクラディウスの顔でもなかった。


 微笑むティリオンの、優しい顔。


 現在、彼女の方が、アテナイの手からまもろうと必死になっている、愛する青年の顔。


 互いの気持ちを確かめ合ったあの日、唇を重ねたあと、ベッドまで抱いて運ばれたアフロディア。


 愛を求めながらも、怯えて震える15歳の少女を優しく抱きしめて、アテナイの青年はささやいた。


「私は、あなたを大事にしたい。


 無理強むりじいはしたくない。


 姫さまが怖いのなら、怖くなくなる時が来るまで、私は待ちましょう。


 ずっとおそばにいますから」


 ティリオンの暖かい腕の中で、アフロディアはただ、すやすやと気持ち良く眠ってしまったのだった。


 男の手がついに下肢にかかり、アフロディアは、張り裂けるような悲鳴をあげた。


 心はひたすら、ひとつの名前を叫び続けていた。


 (助けて、ティリオン!! 助けて、ティリオン!!


 ティリオン! ティリオン! ティリオ――――ン!!!)


 どかっ!!


 にぶい音ととも、アフロディアの上から男の重みがなくなった。


 アフロディアの服の切れ端を握りしめたまま、窪地くぼちの草の斜面をペロピダスの体が転がる。


 ペロピダスをアフロディアの上から蹴落けおとした、長身のマントの男は、半裸のアフロディアを氷のようなあおの目で、ちらりと見た。


 すぐに目を離して、横顔になった男。


 男は無表情のまま、背でひとつに束ねた長い黒髪を揺らして、アフロディアの体をよけて通り、斜面の下であわてて起き上がっているペロピダスの方に向かった。


 風にふわりと広がったマントの下の、優美な細工の革鎧の金具が、きらと光った。


 男はするすると進んで、あっという間にペロピダスの前に到達した。


 顔を真っ赤にして立ち上がるペロピダス。


「な、ななな、なにを、する……!」


 一瞬、閃光が走った。


 男の抜く手は、見えなかった。


 ただ、剣がゆるやかに鞘におさまっていき、最後に、パチッ、と澄んだ音が響いた。


 その音と同時、はらり、とペロピダスの長衣が縦に真っ二つに開く。


「うわ、うわわわ――っ!」


 全開になった自分の前を見て、悲鳴を上げるペロピダス。


 大事な所を押さえ、くるりと身をひるがえすと、切られた衣のすそをひらひらさせながら、がに股で一目散いちもくさんに逃げだしていった。


 裸の胸をかばいながら、そろそろと半身を起こしたアフロディアに、後ろから優しくマントが着せかけられた。


 ほとんど無意識に、着せかけられたマントの前を合わせ、右手で押さえてしっかりつかむ。


 すると、左側から手が差しのべられ、自然とそれにつかまった彼女を静かに立たせてくれた。


 立ち上がってから、はっとして、左右を見るアフロディア。


 アフロディアの両側には、うりふたつの顔の優しそうな青年兵が、彼女を安心させるように微笑んで立っていた。


 目をぱちくりさせて、きょろきょろと、左右の双子を見比べるアフロディア。


 と、いつの間に戻って来たのか、さっきの長い黒髪の男は、もうアフロディアの前に立っていた。


 胸に片手をあてて一礼し、物柔らかに言う。


「お怪我はございませんでしたか? アフロディア姫」


「!!」


 自分の名を知られていることに驚いたのもつかの間、顔を上げた男の、氷のようなあおの目をあらためて見て、アフロディアは慄然りつぜんと悟った。


 (こいつだ!!


 ティリオンの言っていた男。


 ティリオンを追って来た男。


 フレイウス! アテナイの氷の剣士!!)

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