氷の剣士 7

 だんだん離れていくスパルタ市の街並みを見ながら、馬上のアフロディアは後悔していた。


 (やはりクラディウスに一言ひとこと、言ってくればよかっただろうか?)


「おい、どこまで行くつもりだ?」


 とがったアフロディアの声に、普段より上等な長衣を着たテバイ人ペロピダスが振り向く。


「もう少し……もう少しです、姫。


 誰にも聞かれたくない、大事な話があるのです」


 そう言って、起伏の多い草原にさらに馬を進める、黒髭くろひげのペロピダス。


 (こいつ、やはり森で何か聞いていたな!


 いざとなったら殺してやる)


 動きやすい、いつもの膝上までのキトン【ギリシャ衣装の一種】を着たアフロディアは、背中に斜めに背負しょっている威嚇用いかくようの特大の長剣ではなく、腰の銀の短剣に油断なく手をやった。


 短剣の柄元つかもとのエメラルドが、きらりと光る。


 どんどん草原の、草丈高い所へ行こうとするペロピダス。


 ついにアフロディアは、窪地くぼちに向かう斜面の手前で大声を出した。


「いいかげんにしろ!


 ここまでくれば、大声で叫んで話しても誰も聞くものなどおらぬわ。


 さっさとその、大事な話とやらをしてみろ!」


「そうですねえ。


 そろそろいいかもしれませんねえ」


 何気ない風を装い、ペロピダスは顎髭あごひげをかいた。


 もちろん、彼の内心はすでに狼と化し、舌がベロべロよだれはだらだらである。


「それではお話しします。


 ちょっとこちらへ、お耳をお貸しください」


 もったいぶって手招くペロピダス。


 アフロディアは顔をしかめた。


「耳など貸さずとも、ここで聞こえる。


 私は耳がいいからな」


「いや、でも、ちょっとだけ」


「くどい! 早く話せ!」


「そう言わずに、姫」


 じりじりと寄ってくる、ペロピダス。


 一定の距離をおいて下がる、アフロディア。


「私はあまり、長くはここにいられない。早く話せ!」


「大事な、大事なお話なのです」


「だからなんだ?」


「姫と私との」


「おまえと私? 何の事だ?」


「そう照れないでください。


 姫のお気持ちは分かっているのです」


「????」


「姫、安心してください。


 私も、姫と同じ気持ちなのですよ」


「???? ……!!」


 ペロピダスの次の言葉を聞く前に、アフロディアの鋭い耳は、近づいてくる複数の馬蹄ばていのかすかな音をとらえていた。


 くるっと馬首の方向を変えて、馬の背でのびあがる。


 遠くの丘に、一団の騎影。


 掲げている軍旗は、ふくろうの紋章。


 (ついに来た、アテナイだ!)


 思わず短剣から、手が離れた。


 すかさずペロピダスは、だっ、と馬を寄せて、アフロディアに飛びかかった。


 どさっ!!


 重なって落馬するふたり。


 衝撃で呻くアフロディアを、ペロピダスは素早く武装解除した。


 馬乗りになって、まず長剣を抜いて遠くに投げ、続いて短剣も奪って、投げ捨てる。


 王女の細い両手首を左手でいっしょくたにつかみ、金髪の頭上に押さえつけておいて、強引に唇を奪った。


 驚愕に見開かれる琥珀こはくの目。


 すぐにその目が、凄まじい怒りの色にかわる。


「ぶぎゃっ!!」


 唇を噛まれたペロピダスがのけぞった。


 あわてて、あいている方の右手で血を流す唇を押さえる。


「いててててて……」


「何をするかっ、この無礼者!!」


 ぺっぺと唾をはきながら、アフロディアが怒りの叫びを上げる。


「離せっ、馬鹿者! 離さんかっ!」


 アフロディアは、腕をねじったり引っ張ったりして、頭上に押さえられている両手をもぎ離そうとした。


 だが、大きな手の男の力は小揺こゆるぎもしない。


 足をばたばたさせ身をよじって振り落とそうとしても、馬乗りになったがっしりした男の体重は重く、全く無駄だった。


 唇の血を片手でぬぐいながらも、ペロピダスは非常に嬉しそうだった。


「か、かわいい……」


「きさまっ、この私にこんなマネをして、ただで済むと思うなよっ!」


「もちろんです、姫!


 私はちゃんと責任を取ります。責任をとって、結婚します」


「な、にっ?!」


「ああ、姫、姫、かわいいっ!」


「馬鹿者っ! げっ、気持ち悪いっ!」


 ごつい男にがば、と抱きつかれ、柔らかい頬にざらざらと髭をこすりつけられて、いやそうに顔を背けるアフロディア。


 そして、耳元に熱い息を吹きかけられ、びりっ、と服の破れる音がするに及んで、彼女の声も顔色も変わった。


「やめろっ!! 馬鹿者っ!!」


「姫、好きです。かわいい姫」


「やめろと言っている!


 私はおまえなんか嫌いだ、気持ち悪いっ!!」


「ああ、かわいい、かわいい私の姫」


「離せっ、離せっ、やっ、やめろ――っ!」

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