炎の恋人 5

 血相けっそうを変えて戻ってきたアフロディアに、散らばった薬草の書類を拾い集めていたティリオンは、驚きの顔を向けた。


「姫?」


 後ろ手に扉を閉め、はあはあと息を弾ませながら、アフロディアが言う。


「大変だ、兄上さまが戻られた!」


 息を飲むティリオン。


 青ざめ、恐怖を隠しきれないその姿に、アフロディアは必死で言った。


「大丈夫だ、心配するな。兄上さまは優しいおかただ。


 いつも遠国おんごくの旅人には親切だったし、ペイレネのときだって、とても大切にしておられたし」


 急に知らない名前が出て、眉をひそめるティリオン。


「ペイレネ?」


 ちょっと部屋に目を走らせてから、アフロディアが答える。


「ああ、ペイレネはコリントス人なんだ。


 おまえの前に長いこと、この部屋を使っていたんだ」


 コリントス人、と聞いて、ティリオンは、戦史、歴史の授業で習ったひとつのいくさのことを思い出した。


 22年前に勃発ぼっぱつし、9年の争いを経て終わったそのいくさは、戦地になった土地の名をとって『コリントス戦争』と呼ばれていた。


 コリントス、アルゴス、アテナイ、テバイ。


 これらギリシャ4大ポリスが、同盟を組み、覇者はしゃスパルタにいどんだのである。


 戦いは最初、4大ポリス同盟軍側に優勢だった。


 ところが、4大ポリス同盟軍側を支援していたペルシャ帝国が、いくさの途中で突然、スパルタ側に寝返った。


 それで結局、スパルタが勝利し、4大ポリス同盟軍は敗北したのである。


「ひょっとして、人質、ですか? あのコリントス戦争の、あとの……」


 ティリオンの質問に、アフロディアが頷く。


「うん。でも、人質といっても、全然そんな感じじゃなかったんだぞ。


 ペイレネは、兄上と私の真ん中くらいの年だったし、とても気が合って、3人でよく遊んだものだ。


 食事も、遊びも、武術訓練ぶじゅつくんれんまで毎日一緒にやったくらいだ。


 ペイレネは、2年前までここにいた。


 ペイレネは、もうずっとここにいたい、スパルタ人になりたい、と言っていたのだが……」


 アフロディアは悲しそうに、部屋の丸いテーブルの3つの椅子を見た。


「兄上は、無理やりコリントスポリスに帰らせた。


 その方がペイレネのためだ、と言うんだ。


 ペイレネは最後まで、帰りたくない、と泣いていたのに。


 でも、ペイレネがここにいる間は、兄上はとても大事にしておられた。


 ペイレネが病気になったときは、寝ないで看病なさったくらいだ。


 そんなだから、おまえの事もちゃんと説明すればわかってくださる。


 それに私が頼めば、どんなことでもきいてくださる。


 心配することはないんだ」


 説明して、アフロディアは懸命に笑ってみせた。


 が、3つの椅子を無言で見つめるティリオンの表情は、険しい。


 兄が奪ってきたアテナイ製の銀の短剣を握りしめ、アフロディアは哀願する口調で言った。


「心配することはない……心配はないが……


 ただ、今だけはちょっとが悪いかもしれないから。


 だから、しばらくはアテナイ人であることは隠して、折をみて兄上さまに打ち明けよう。


 な、そうしよう、ティリオン」


 3つの椅子から、アフロディアに視線を移したティリオンの険しい表情が、彼女のうるんだ瞳に出合って、わずかにやわらぐ。


 しかし、彼はかぶりを振った。


「クレオンブロトス王は、聡明そうめいなかたとお聞きしています。


 そんなに簡単にごまかせるとは思えません。


 姫さま、私はやはり、ここを出ていったほうが……」


 その先を言わせまいと、アフロディアは叫んだ。


「私が何とかする。絶対、何とかするから!


 この命に代えても、必ず何とかする!


 だからここにいてくれ、ティリオン!!」


 衝撃的なアフロディアの言葉に、驚いて、あとじさるティリオン。


「姫、命に代えても……などと。


 そのような言葉を、王女様が軽々かるがるしくおっしゃってはいけません!」


 アフロディアは両腕をさしのばした。


 愛する青年を失うまいとする少女は、必死だった。


「なぜ? なぜ言ってはいけない?


 私は、本当にそう思っているのに。


 私は、おまえを心から……」


 そのまま、ふらふらと歩み寄ろうとしたアフロディアは、あとじさる相手の目の中の感情に気づき、愕然と立ち止まった。


 さしのばした腕が、だらり、とたれる。


 唇が、震える。


「おまえ……私が、怖いのか?」


「いいえ、姫」


 苦しげに、ティリオン。


「怖いのは、私自身です。


 私は、自分自身が恐い。


 自分で自分を、おさえきれなくなるのが怖い。


 さきほども言いましたが、私は、姫さまにふさわしい男ではない。


 姫さまは、本当の私を知らない。


 だから、簡単にそんなことを言われるのです」


「では、本当のおまえを教えてくれればいい!!」


 手をこぶしにしてアフロディアが叫んだあと、沈黙が流れた。


 隠しておきたいことを言わされようとして、苦悩の色を浮かべる青年の返事を、アフロディアはじっと待った。

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