炎の恋人 4 *

 クレオンブロトスは、少し困ったように頬をいた。


 この短剣は、今着ているサイズの合わない窮屈きゅうくつな鎧と同様に、彼が国へ帰るため、やむなく分捕ぶんどったアテナイ艦にあったものだ。


「いや、そういう訳ではないが……ちょっと、色々とあってな。


 そんなことは、おまえが気にしなくてもよろしい。


 ん、なんだ? どうしたんだ? 顔色が悪いぞ」


 兄王は誤魔化そうとしたが、アフロディアは察知していた。


 兄はアテナイと戦って、これを奪ってきたのだ。


 彼女の愛する青年の国と。


 銀の短剣を持つ手が、震える。


 クレオンブロトスは、静かにアフロディアを床におろした。


 おろされても短剣を持ったまま固まって、様子のおかしい妹の表情を、屈みこんで探るように見る。


 目が真剣になっていた。


「アフロディア、おまえ、どこか具合でも悪いのか?


 何かおかしな物でも食べたんじゃないだろうな?」


 この時点で、ティリオンの存在を全く知らなかったクレオンブロトス王は、エウリュポン王家側による、アフロディアの暗殺を懸念けねんしていた。


 彼に対する度重たびかさなる謀略ぼうりゃくの失敗に焦りを見せてきた相手が、今度はアフロディアにまで魔の手を伸ばしてくることは、十分考えられたからである。


 妹の小さな額に手をあてて、眉をひそめる。


「少し、熱があるようだな……口を開けてみろ」


「だ、大丈夫です、兄上。私は、なんともありませんよ」


「開けろ!」


 いつにない険しい兄の声に、あわてて口を開ける、アフロディア。


 ピンク色の口中を、クレオンブロトが見る。


「色は変わっていないようだが、念のためだ。


 おい! そこのおまえ、侍従医師長じじゅういしちょうを呼んで……」


 近くの兵に、侍医じいを呼ばせようとしたクレオンブロトスに、別の兵が駆け寄ってきた。


「失礼します! 王、大変なことが!」


「何事だ」


 立ち上がったクレオンブロトスに、兵が耳打ちする。


 王の顔色が、さっと変わった。


「なっ! カーギル、早まったことを……」


 形相ぎょうそうの変わった兄が、いつものくせあごに手をあてて、何か必死に思案し始めるのを、アフロディアは不安そうに見上げた。


 やがてクレオンブロトスは再び屈んで、アフロディアの両肩をつかんだ。


「アフロディア、悪いが、私は大事な用ができた。


 おまえひとりで侍医じいのところへ行けるか?」


「兄上、本当に私は何ともありませんよ! ほら、こんなに元気!」


 そでをまくり腕を曲げて、小さな力瘤ちからこぶをみせる妹に、兄王は顔をしかめたが、頷いた。


「本当か? それならまあ、いいだろう。


 だがアフロディア、私がこれから言うことをよく聞け。


 まず、私がいいと言うまで、絶対にアギス王宮から出るな」


「でも兄上……」


「黙って聞け!


 それからもうひとつ、乳母うばやの出すもの以外は、決して口にするな。


 つまみ食いもだめだ。


 この二つを、必ず守れ!


 さあ、わかったかどうか、口に出して言ってみろ」

 

 兄の迫力にたじろぎながら、アフロディアは言った。


「兄上さまがいいとおっしゃるまで、王宮の外に出ない。


 乳母うばやの出してくれる食べ物だけを食べる。


 つまみ食いもしない」


「よーし、いい子だ。約束だぞ」


 アフロディアの金髪を軽く撫でると、兄王は数人の兵をひきつれて、大慌おおあわてでどこかへ行ってしまった。


 しばらく首をかしげていたアフロディアだったが、胸に抱きしめている大きなエメラルドのついた銀の短剣のことを思い出すと、兄と同様に顔色を変え、もときた道を戻って駆けだした。


 彼女には彼女の、大事な用ができたのだ。



――――――――――――――――――*



 人物紹介(二つの王家のある、二王制軍事国家スパルタの人たち)


● クレオンブロトス王(25歳)……二王制軍事国家スパルタの、アギス王家の若い王。

 強くたくましく、賢い王で『スパルタの黄金獅子きんじし』とも呼ばれている。


● アフロディア姫(15歳)……二王制軍事国家スパルタの、アギス王家の王女。

 クレオンブロトス王の妹で、じゃじゃ馬姫。ティリオンに恋している。

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