炎の恋人 3

 きらめく涙の尾をひいて、アフロディアは走った。


 アフロディアとて、ティリオンの言ったこと……


 スパルタ王女である自分の身分の事や、スパルタとアテナイの長年の険悪な関係については十分わかっていた。


 これは危険な恋だった。


 許されざる恋だった。


 それでもなお、もうどうすることも出来ない所まで彼女の恋心はつのってしまっていたのだ。


 泣きながら王宮の廊下を走るアフロディアに、涙でにじんで判別できない幾人かの人影が、驚いて立ちすくんだり、「姫さま!」と驚いた声をかけたりした。


 だが彼女はかまわず、走り続けた。


 突然、大きな手に抱き上げられるまで。


「どうしたというのだ、アフロディア?」


 懐かしい声。


 アフロディアは急に抱き上げられて、空中でばたばたさせていた足を止めた。


「兄上!」


 頬をびしょびしょにしたまま目と口を大きく開いて、アフロディアは、唐突とうとつに現れた兄王クレオンブロトスを見つめた。


 クレオンブロトスは、ひょい、と逞しい左腕に小鳥のように妹を座らせ、右手で頬の涙を拭ってやった。


「どうして泣いている? 一体、何があったのだ?」


「あにうえ、いつ、帰って……こられたの?」


「少し前だ。


 おまえを捜していたのだぞ。どこにいたのだ?」


「………」


「まあいい。それより、どうして泣いている?


 何が悲しいのか、言ってごらん」


 心配そうな兄の、幼いころから聞きなれた優しい問いかけに、彼女は答えることができなかった。


 恋など知らぬついこの間までのように、無邪気に答えられなかった。


 愛する青年に拒絶された悲しみと、大切な兄王が無事に帰ってきた喜びが、心の中で変なふうに混ざり合って、言葉なく、彼女は兄の首に抱きついた。


 涙が兄の広い背中に、ぽたぽたとこぼれた。


「アフロディア?」


 奇妙な様子でしくしくと泣き始めた妹に、クレオンブロトス王は困惑していた。


 そして王は、アテナイのピレウス港沖に出かける前のひと騒動そうどうを思い出した。


「アフロディア、まさかおまえ、そんなに置いていかれたのがつらかったのか?」


「………くすん」


「それはすまなかった。


 だが、仕方がなかったのだ。


 その……いつかおまえにも話せる時がくると思うが、とてもおまえを連れていけるような場所ではなかったのだよ」


 溺愛できあいする妹の涙に、しどろもどろの甘い兄であった。


「頼む、アフロディア、もう泣かんでくれ。


 あんなやり方をしたのは、悪かったと思っているから」


 兄の誤解は思わず、クスッとアフロディアの笑いを誘った。


 心が少し軽くなった。


 そこで彼女は、手の甲で涙をふいて顔を上げた。


「もういい。


 そのことはもう、特別に許して差し上げます。


 それよりも兄上、あとで聞いていただきたい、大事な、とぉ――――っても大事な話があるのです」


「とぉ――――っても大事な話?


 も、もちろん、いいとも。


 だが、おまえのその顔は、怖いな。


 おまえがそんな顔をするときは、たいてい難しいことを言いだす前触れだからな。


 おお怖い、怖い」


 おどけて、ぶるぶると体を震わせてみせる兄に、もともと陽気なアフロディアは声をたてて笑った。


 ところでアフロディアの「あとで聞いていただきたい、とぉ――――っても大事な話」とは、もちろんティリオンのことだった。


 どうしてもティリオンをこのまま引き止めるつもりなら、スパルタ・アギス王宮のあるじクレオンブロトス王には隠しおおせる事ではなかった。


 それに、自分に甘い兄、そして、閉鎖的なスパルタ社会にあっては珍しい、外国人に寛大かんだいな王である兄を知っていたからである。


 自分の、ティリオンに対する恋心まで打ち明けられる、とは思わなかった。


 しかしティリオンの存在については、『川で溺れた時、命を助けてくれた大事な恩人』として、うまく説明するつもりだったのだ。


 さて、機嫌を直したらしい妹の笑みに、クレオンブロトス王は喜んだ。


 彼は、身にまとっている窮屈きゅうくつそうな見慣れぬ鎧の腰から、光るものを抜き取った。


「そうだ、おまえに土産みやげがあるぞ。


 ほら、きれいだろう」


「わあっ、ほんとだ!」


 それは、柄元つかもとに大粒のエメラルドのはまった、銀の短剣だった。


 小さなくるみほどもあるエメラルドを中心に、何種類かの宝石が、凝った装飾模様をほどこしたつかさやに美しく配置されてはめこまれている。


 (この透き通った緑の石、ティリオンの目の色と同じだ!)


 アフロディアはうっとりとエメラルドを見つめ、それから兄に頬ずりをした。


「きれい、きれい、嬉しい!


 ありがとう兄上、とっても嬉しい!!」


「おいおい、そんなに顔をこすりつけるな。


 くすぐったいじゃないか。ははははは」


 目尻を下げ、兄王は愛しい妹の髪をくしゃくしゃとかきまわした。


「いま泣いたカラスがなんとやら、だな。


 ん、なんだこの髪は? それに裸足はだしじゃないか。


 そうか、今日は侍従長がいないんだな。


 すぐわかるぞ、しょうのない奴だ」


 帰って早速さっそくの兄の小言こごとは聞かなかったことにして、アフロディアは美しい短剣を光にかざした。


「ねえ兄上、この真ん中の緑の石がとてもきれい。すごくきらきら光って。


 こんなに大きい、きれいな緑の石は初めて見ました。


 えーと、これ、何ていう石でしたっけ?」


 クレオンブロトスは笑って説明した。


「それは、エメラルド、という石だ。


 おまえは欲がないから、宝石のこともあまり知らんのだな」


「エメラルド……エメラルド、というのですか。


 私、この石が、今まで見た中で一番好き。


 優しく透き通って、輝いて、とても気高けだかい色をしていて」


「そうだな。


 確かに、これほど大きくて澄んだエメラルドは非常に珍しい。


 これだけでも大した価値のある貴重品だ。


 おまえは目が高いぞ。


 他の宝石の質もいいし、銀の細工も上出来だ。


 ただし、美しくはあるが、いまひとつ、剣としての実用性には欠けるかもしれん。


 まあアテナイ製だからな、しょうがない」


 アフロディアの息が、止まった。


「……兄上は、アテナイに行ってこられたのか?」

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る