炎の恋人 2

 アフロディアは頬を染めて、ハートの形をした葉と、真ん中に緑のしべが突き出ていて、まわりに白い四枚の花びらのようなものをもつ、草の描かれた紙をじっと見た。


「ありがとう、とてもうれしい。


 私も、これがきちんと読めるようになるよう勉強する。


 勉強はきら……好きではないが、おまえが私のために書いてくれたものを、自分で読みたいから」


 ティリオンは、喜ぶアフロディアから顔をそむけた。


 彼の指は、自らの緋色ひいろの長衣の膝のあたりを、きつくつかんでいた。


「いざという時、姫さまがわかりにくいようでしたら、侍医じいさまにこれを見せて相談なさってください。


 こうして書いておけば、私がいなくなっても、これが姫さまのお役に立つと思います」


「え?」


「姫さま、私はそろそろ、ここからおいとましようと思います」


 がたん! と椅子が倒れた。


 アフロディアは、真っ青になって立っていた。


「おいとま?


 それはどう言う意味だ、ティリオン?」


 ティリオンは、何日か前から考えていた通りの言葉を、口から押し出した。


「姫さまのおかげで、傷もすっかり良くなりました。


 また、旅に出たいのです。


 お別れにあたって、お礼のしるしにそれを差し上げます。


 もちろん、そのようなものでは、姫さまのご親切には代えられませんが、せめてもの私の感謝の気持ち、と思って頂ければ幸いです」


 アフロディアの全身は、ぶるぶると震えていた。


 彼女は手に持った薬草の書類を見、それから、決意の表情を浮かべているティリオンの横顔を見た。


 そして叫んだ。


「いやだっ!


 そんなつもりなら、こんな……こんなものいらないっ!!」


 手に持った書類を床に叩きつけ、さらにテーブルの上の書類も、荒々しく左右にはらう。


「こんなもの、こんなもの、こんなもの、いらないっ!


 いらない、いらない、いらない、いらない――――――っ!!」


「姫!」


「いらない、いらない、いらない!


 こんなもの、私は全然いらないんだ――――――っ!!」


 まき散らされた書類の舞うなか、半狂乱になって床の書類を踏みにじるアフロディアと、それを止めようとするティリオン。


「姫、落ち着いて下さい、姫っ!」


「いやだ、いやだ、こんなものいらないっ!


 こんなものいらないから、私はおまえに……


 私はおまえに、そばにいて欲しいんだ!!」


「姫!」


 ティリオンは、暴れまわるアフロディアの両手をつかまえ、その体を引き寄せて抱きとめた。


 ティリオンの腕に抱かれると、アフロディアの体から急に力が抜けた。


 暖かい胸に顔を押し当て、アフロディアは、おさえきれぬ言葉をほとばしらせていた。


「ティリオン、私のそばにいてくれ!


 どこかへ行く、などと、そんなこと言わないでくれ。


 何か気に入らぬ事があるなら、おまえの望むように変えるから。


 だから、頼む! 私のそばにいてくれ。


 私は、お、おまえが好きだ、好きなんだ!!


 おまえが好き……好き……好き……


 だからティリオン…そばにいて欲しい……お願いだから……」


「姫っ……」


 やむにやまれぬ衝動にかられて、ティリオンも強くアフロディアを抱きしめていた。


 祖国に追われ、心と体に傷を負い、孤独だったティリオン。


 これほど強く、真摯しんしな想いを向けてくるスパルタ王女の情熱の炎は、彼の体の傷と孤独を癒しただけでなく、ついにはその心に火をつけるのに十分な激しさだったのだ。


 ティリオンの長い指が、いつくしむようにアフロディアの黄金の髪を撫でる。


 ふたりきりの部屋。


 若い娘の甘やかな柔らかい体を抱き、自分の内に急速に燃え広がろうとする若い男の欲望と、ティリオンは必死で戦わねばならなかった。


 秀麗しゅうれいな顔が、苦しげにゆがんでいた。


 (だめだ、やはりこのままではだめだ!


 姫に好意を持ってしまったこんな状態では、もう、自分を抑える自信がない。


 大罪を犯した私に、そんな資格はないのに。


 早くここを去らねば)


 せつなく熱い、ふたりだけの数分が過ぎる。


 やがて、かろうじて勝利をおさめたティリオンの理性が、ふたりの体を離した。


 アフロディアの両肩にそっと手を置き、自分の腕の長さだけ彼は後ろへ下がった。


 涙をためて見上げるアフロディアの顔を直視するのを避けながら、自らにもいいきかせるように言う。


「姫さま……姫さまはスパルタの王女さま。


 私は、ただの医者。それもアテナイ人の。


 この意味はわかりますね?


 私は、姫さまにふさわしい男ではない。


 姫さまには姫さまにふさわしいかたが、きっといつか現れます。


 お別れするのは辛いですが、その方が姫さまの幸せのためなのです。


 もう泣かないで……どうか私を、行かせてください」


 アフロディアの瞳が拒絶された想いに、すうっと虚ろになる。


 涙がとめどなくあふれ、あふれ、あふれて……


「いや、いやだ。


 おまえがいなくなるなんて、いや。


 いやだ、いやだ、いやだ、絶対にいやだ、いやだ――――――っ!!」


 肩に置かれた手を振り払い、彼女は部屋の外へ飛び出した。


 あわてて後を追ってきたティリオンの目の前で、素早く扉を閉め、閂錠かんぬきじょうををかける。


「だめだ、ティリオン!


 おまえが行ってしまうなんて、いやだ!!


 そんなこと許さない、許さない。


 絶対に、絶対に許さないからな――――――っ!」


 そうわめくと、分厚い扉にさえぎられたティリオンの、くぐもった叫びと叩く音を無視して、アフロディア姫は走り去った。


 閉じ込められた扉を叩きながら、ティリオンが叫び続ける。


「姫! 姫! 待ってください!


 どうかもう一度、落ち着いてよく考えてください。


 姫? 姫、まだそこにいますよね?


 待って、待ってください、姫っ! 姫――――っ!」


 姫ぎみの気配が消え、ティリオンは、自分の計画が完全に失敗して、取り残されたことを知った。


 美しい外見に似合わぬ荒々しさで、最後にひときわ激しく、ばん!! と閉じ込められた扉を叩く。


「くそっ、何てことだっ!」


 それから急に肩を落とし、扉にもたれて、叩きつけたこぶしをそろそろと開いて見た。


 さっきまでアフロディアを抱いていた白いその手には、実際にはしみひとつなかった。


 が、彼の心の目には、どう打ち消しあがいても、ぬぐい去れぬあの夜の血の痕が……


 父親アテナイ・ストラデゴスを斬った罪の血の痕が、はっきりと映っていた。

 

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