第七章 炎の恋人

炎の恋人 1

 スパルタ王国のアフロディア姫が、アテナイ人ティリオンをアギス王宮に連れ込んでから、5週間が過ぎた。


 ティリオンの部屋のふかふかの絨毯じゅうたんの上に、アフロディアはうつ伏せに寝そべっている。


 彼女の金髪は、今日はポニーテイルに高く結われていなかった。


 口うるさい侍従長が出掛けていて、留守だったのである。


 束ねられていない髪は、彼女が白の短いキトン【ギリシャ衣装の一種】の上から羽織っている、足首まである長い緋色ひいろのガウンの上に広がり、つやつやと黄金の波をうっていた。


 ガウンの裾から白い足が片方、天井を指すように膝から曲げられていて、素足のつまさきが小さな円をゆっくりと描いている。


 胸の下に抱え込んだ柔らかいクッションに頬を置き、彼女は、丸いテーブルに向かうティリオンを見ていた。


 彼女のガウンとおそろいの色の、緋色ひいろのゆったりとした長衣をまとって、美貌の青年はテーブルで書き物をしている。


 アフロディア姫の手厚い……というより熱烈な看護と、若い体の回復力のおかげで、ティリオンの傷はすっかり癒えていた。


 体力が戻ってくると、彼はアフロディア姫に頼んで、パピルス紙とペンを用意してもらい、ここ数日ずっとしきりに何かを書き続けていた。


 アフロディアも飽きることなく、そんなティリオンを見つめ続けていた。


 彼女は、真剣な表情で手を動かす彼の横顔を見るのが好きだった。


 だがこうしてふたり、ただ一緒にいるだけでは満たされない何かが、彼女の内にふくらみ始めていた。


 とりとめもないことを語り合ったり、食事をしたり、ゲームをしたり、黙って一緒にいるだけでは満たされない、何かが……


 ティリオンの長い透けるような銀の髪は、今朝、アフロディアが面白がって編んだ、一本の太い三つ編みになって下がっている。


 彼が頭を動かすたび、小さな緑のリボンをつけた三つ編みの先がぴくぴく動いて、猫じゃらしのように彼女を誘う。


 (あの先っぽに飛びついて、引っ張って、あいつをこっちへ向かせてやりたい。


 そして、そして、それから……)


 胸苦しくなって、彼女は美しすぎる青年から視線を逸らした。


 ふと壁の、森と動物たちを織ったタペストリーに目を留めた彼女は、濃い緑の草の影から顔を覗かせている獅子の姿に、帰りの遅い兄王のことを思い出した。


 天井を向いていた足が絨毯じゅうたんの上にぱたん、と倒れた。


 (兄上さま、今度のお帰りは遅いな。


 今頃、どうしておられるのだろう)


 一抹いちまつの不安が胸をかすめたが、わずかの間のことだった。


 彼女の兄は、いままでも数週間、時には、数ヶ月も留守にすることが度々たびたびあったのである。


 再びテーブルに視線を戻したアフロディアの心臓が、どきり、と鳴る。


 ティリオンが手を止めて、その緑色の目でじっと彼女を見ていたのだ。


 アフロディアと目が合うと、彼はぎこちなく微笑んだ。


「姫さま、退屈なのでしょう?


 外にいかず、ずっとここに閉じこもりきりだから……」


 退屈、と言われて、アフロディアの胸に、かっと熱いものがこみあげた。


 彼女は荒々しく立ち上がった。


「退屈なのではない!


 私は決して退屈などではないのに。全然退屈なんかじゃない!」


 そのままつかつかと歩き、紙を積み上げたテーブルに、ばん、と音をたてて両手をつく。


「大体この間から、ひとりでおまえは何をしているのだ、ティリオン?!」


 ティリオンは、アフロディアの突然の感情の高ぶりに少し驚いたようだったが、黙って腕をのばして椅子を一脚、自分の隣に引き寄せた。


 手のひらを上にして、アフロディアに座るよううながす。


 アフロディアが座ると、自分の書いた紙のなかから数枚を取って、彼女の前に置いた。


 紙には植物の絵と文章、いくつかの数式が細かく書いてある。


 彼は説明を始めた。


「姫さま、これはとても役に立つ薬草の絵と、その効能こうのうの説明です。


 どのあたりに生えているのかも、書いておきました。


 その下にあるのは、この薬草で薬を作るときの調合比率ちょうごうひりつと方法です。


 たとえば、姫さまが何か悪いものを食べて、お腹をこわされたとします。


 その時は、こちらの薬草とこっちを、ここに書いてある割合で混ぜて、せんじて飲むといいのです」


 彼は、上に紙を重ねた。


「頭が痛くなられたときは、この薬草です。


 葉を細かくすりつぶして、ここに書いてあるように3対2の割合で、こちらの草の根の煮だし汁と混ぜて……」


 アフロディアは、ティリオンが優しい声で説明するものを必死で理解しようとした。


 だがいかんせん、勉強が大の苦手の彼女には、彼が説明する内容の半分もよくわからなかった。


 指さされる文章の簡単な部分すら、読むのに骨をおらねばならなかったのだ。


 彼女は頭をかきむしった。


「ええい、具合の悪くなったときは侍医じいに診てもらえばいいのだ!


 おまえがそんなことを心配する必要はない!」


 ティリオンは小首をかしげ、困ったように微笑んだ。


 彼が矢でたれたとき、何度かその侍医じいなる、ひどく歳をとった老人がやって来て、よぼよぼと一応の手当てをしてくれた。


 けれどもその治療は、ギリシャで最も進んだ医療機関と言われる、アテナイ医学アカデミーにいた彼からすれば、ほんの気休め程度でしかなかったのだ。


 彼は遠慮がちに言った。


「そうかもしれません。


 でもこれも、何かの時に役に立つかもしれませんよ。


 仕舞しまっておくだけでもいいから、受け取ってもらえませんか?」


 とたんにアフロディアの顔が、ぱっと明るくなった。


「これ、これを私に? !


 私にくれるために、おまえはずっとこれを書いていたのか?」


「はい。


 私はこれくらいしか、姫さまにして差し上げることができないものですから。


 私は、ずっと親切にして下さった姫さまにお礼がしたかったのです」


「礼など、そんな事は少しも気にしなくてよいが……


 私のために……おまえがわたしのために、これを書いてくれたのか…」

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