ギリシャ物語

本城 冴月(ほんじょう さつき)

第一章 スパルタへ

スパルタへ 1

 【※この物語は、恋愛・歴史フィクションです】


 ティリオンは馬に常足なみあしをさせ、夜の山道を登っていた。


 背後の急な明るさに、はっとして手綱を引き、馬を止めて振り返る。

 

「あれは、やかたが……燃えている?!」


 アテナイ軍に追われているティリオンをかくまい、さらには、馬を与えて逃がしてくれた16歳の貴族の少女。


 その少女の祖父の所有するやかたが燃えているらしい。


 ティリオンはあわてて、馬首を返して戻ろうとした。


 だがそこで、別れぎわに少女が言った言葉を思い出した。


『ティリオンさま、フレイウス、というアテナイの軍人に、多分ばれました!


 この馬に乗ってすぐに出発なさってください。


 追っ手は私がひきつけます。


 思いついた目論見もくろみがありますから。


 私のことは大丈夫なので、心配しないでください。


 いいですか、何があっても、絶対、引き返してはだめ。


 絶対に、絶対に引き返してはだめですよ!』


 ティリオンは、呆然としながら悟った。


 (追っ手を引きつける、とはこのことだったのか。


 あのは、私のためにやかたに火をつけたんだ!)


 山頂に近いこの場所でさえ、激しく燃え上がる炎が山裾やますその木々の間にちらちら見える。


 貴族の別荘だったやかたは、おそらく全焼している。


 あの少女は、祖父のやまいを治療した自分によほど恩義を感じてしまっていたのだろう、と考え、ティリオンは申し訳ない気持ちでいっぱいになった。


 しかし彼には気づいていないことがあった。


 少女がティリオンに抱いていた、恋心。


 それゆえに、逃亡中の彼をかくまい、馬を与えて逃がし、やかたに放火してまで追っ手を引きつけ逃がしてくれたことを。


 ティリオンは苦渋の表情で、少女がくれた長衣の胸のあたりをつかみ、うつむいた。 


 背でゆるく束ねた、長く真っすぐな銀髪。


 彼がうつむくと、銀髪は顔の両側に、つややかな銀扇ぎんせんを、はらりと開いたようにかかり、まれなる美貌の顔を隠す。


 これほどの犠牲を払ってくれた少女に、心からびたい、いつかむくいたい。


 強く願うティリオンだったが、おそらく、二度と彼女に会うことはない。


 彼は近いうちにギリシャを離れるつもりだったからだ。


 祖国アテナイポリスで、自分の父親の将軍長アテナイ・ストラデゴスを斬る、という大罪を犯してしまった、ティリオン。


 アテナイから逃げ、林立するギリシャの都市国家ポリスの間をあちらへこちらへと何ヶ月も逃げ回った。


 けれど当然ながら、重罪人を追うアテナイ側の追っ手はあきらめる様子は全くなかった。


 彼は追い詰められていた。


 ティリオンは、決意の面持おももちで顔を上げた。


 (いまさら引き返しても、やかたは救えない……)


 戻ればやかたの消火を手伝うどころか、アテナイ軍の追っ手、フレイウスに捕まって処刑されるのは確実だった。


 やかたを燃やしてまで逃がしてくれた、あの少女の厚意を無にするだけだった。


 再び、馬首を山頂に向け、山道を登り始める。


 少女が火をつけるまでに至った、ということは、追っ手が間近まで迫っている、ということだ。


 気はいたが、少女がくれたこの鹿毛かげを今は走らせることは出来ない。


 新月の夜の鬱蒼うっそうと木の茂る暗い山道は、馬を走らせるには危険すぎた。


 だが追っ手にとっても、この暗闇は罪人を捕らえる大きな障害となるだろう。


 ティリオンの計画は、この暗闇にまぎれて山を越え、さらにいくつか山を越えて南に進み、スパルタポリス領内に入ること。


 アテナイと犬猿けんえんの仲のスパルタ領内に逃げ込めば、さすがにアテナイ軍は追ってこれないはずだ。


 アテナイでは野蛮と凶暴の代名詞になっている、軍事国家スパルタ。


 そんな所に行くことはアテナイ人であるティリオンにとって、もちろん恐ろしくはあった。


 とはいえ、もほや他に方法はない。


 ややひらけた山頂まで来ると、上り斜面と違って、下り斜面の木々の生え方はまばらだった。


 暗闇の中にうっすらと、細い下りの山道がのびているのが見えた。


 (これなら少しだけ、馬足うまあしを早めてもいいかもしれない。


 スパルタ領内に入って一息ついたら、どこかで仕事をして船賃くらいは稼がないと。


 それから、ラコニア半島を抜けて海に出よう)


 ティリオンはもう一度、馬上で振り返り、助けてくれた少女に心中で深く詫び、厚く礼を言った。


 そして馬足うまあしを早め、スパルタへ向かって駆け出した。


 紀元前372年 夏の過ぎようとしている、ギリシャ。


 ひとりの美しい逃亡者が、スパルタポリスに逃げ込もうとしていた。



――――――――――――――――*



 (※「常足なみあし」とは馬を活発的・規則的に歩かせた時に自然に出る歩法です。

 馬にとって最も楽な動きなので、エネルギー効率の点において最も持久力に優れた歩き方です) 

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