スパルタへ 2

 25歳のアテナイ軍士官、フレイウスは、すさまじい轟音を立てて燃えさかる山あいの館を見ていた。


 部下の十数人の兵士に消火をさせているものの、この館を救うのはもう無理だろう。


 彫りの深い端正たんせいな顔を険しくして、フレイウスは、激しく燃える館全体を、細部まで詳しく確認するように見渡した。


 印象的なあおの目が、強い集中のため細められる。


 緊張の汗が、つうーっ、とこめかみから伝わった。


 (だめだ、わからない。


 あのかたの気配は、相変わらずわからないままだ。


 まさか本当に、火災から逃げ遅れた、などということはないだろうな?!)


 いっそ炎の中へ飛び込んで、その名前を呼びながら、捜しまわりたい衝動にかられるが、懸命にそれをこらえる。


 そこへ……


「「フレイウスさま!!」」


 異口同音いくどうおんに叫んで駆け寄ってきたのは、そっくりな顔の二人のアテナイ青年兵。


 双子なのだ。


 栗色の髪の双子の兵は、フレイウスの前に立ち、口々に報告した。


「ご命令どおり、館から逃げた馬を集めました。


 確かに、前に数えた時よりも一頭足りません!」


「フレイウスさまが、ここの馬舎で一番良い馬だと。


 そう言われていた、あの鹿毛かげがいません!」


 フレイウスは、ほっとし、大きく肩の力を抜いた。


 微笑んで双子にうなずく。


  彼が頷くと、金の飾りで束ねた長くまっすぐな黒髪が、背中で大きく揺れた。


「よし、まだだ。まだ終わりではない!」 


 消火は中止。兵を集合させよ!」


 フレイウスの命令に、双子の青年兵が、「はいっ」と答えて、胸にこぶしをあてる敬礼をする。


 フレイウスのほうは、すぐさま、焼け出された住人たちがひとかたまりになっている所に向かって歩き出していた。


 ゴオオオオォォォッ!! バアァァァン!!


 バルコニーのひとつが焼け落ち、フレイウスの背後で爆発するように粉々になった。


 だが、燃える館に関心を失った彼は、もはや一顧いっこだにしなかった。


 焼け出された住人たち。


 館のあるじである、上等の長衣を着た70歳くらいの老人と、その孫娘と、10人ほどの召使いたち。


 館のあるじだった老人は、自分の別荘の大火にショックのあまり、地面にべったりと座り込んで放心状態である。


 近寄ってくるフレイウスに、ぎくりとして、16歳の孫娘の少女が立ち上がる。


 座り込んでいる祖父をかばうように、前に出た。


 燃えさかる館の炎を背に、長く黒いマントをなびかせ、革鎧の腰に長剣をいてやって来る、恐ろしい軍人。


 気丈さをつくろおうとしているものの、少女の足は、ぺプロス【古代ギリシアの女性が着用していた長衣】のなかで、がくがくと震えていた。


 少女の前まで来ると、長身のフレイウスは、彼の胸ほどまでしかない可憐な少女を見下ろし、言った。


「残念ながら、これ以上の消火は無駄です。


 お館は、あきらめていただくしかありません。


 しかし、こうして館の皆さんがご無事であったのが何よりも良かったでしょう。


 最初のあなたの、避難の誘導が、非常に……


 信じられないほど、迅速で的確でしたからね」


 はりつめた表情の少女は、フレイウスの言葉に声なく頷く。


 フレイウスは身をかがめ、すっと顔を少女に寄せると、他の者には聞こえないように小声で言った。


「それにしても放火とは、ずいぶんと恐ろしい事をしたものだ。


 このポリスでも放火は重罪でしょう?」


「!!!!」


 少女は一気に青ざめた。


 少女の耳元で、フレイウスは続けた。


「もう、嘘はつかないでください。


 あなたが、彼、を密かにかくまっていたことはすでにわかっています。


 あなたは、彼、に馬を与えて逃がした。


 彼、の逃げる時間をかせぐために、館に火をつけて騒ぎを起こし、我々の目を引きつけた」


 図星をさされて震えあがり、思わずあとじさる少女。


 少女が後ずさった分だけ前に進んで、再び彼女の耳に口を寄せ、ささやくフレイウス。


「大丈夫です。


 私の質問に答えてくれれば、放火の件は、あなたと私だけの秘密にしておきますから。


 質問はふたつ。


 彼は、いつ、ここを出発しましたか?


 彼は、どこ、に行ったのですか?」


 その口調は、か弱い少女に配慮したやんわりとしたものだった。


 けれども、自分のした恐ろしい事実を暴かれ、それでもなお、恋した彼、のことをかばいたい少女の目には、みるみる涙があふれ出した。


 くるりと背をむけ、放心状態のままの祖父に抱きつく。


 細い肩を震わせ、しくしく泣き始めた。


 フレイウスが本気を出せば、ひとひねりでぽきりと折れそうな、華奢きゃしゃな細い肩。


 その肩に込められた精一杯の拒絶、そして恐怖が、しなやかなはがねのような筋肉をもつフレイウスの全身に、どっと深い疲れをにじませた。


 もし相手が男なら、胸倉むなぐらをつかんで怒鳴り、殴りつけてでも吐かせるところだったが、こんな可憐な少女が相手では、フレイウスにそんなことはできない。


 これ以上問い詰めても泣かれるばかりで、かえって時間をとられ、追跡に遅れが出るだけだと彼にはわかった。

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