書簡到着 2 *

 王冠をかぶり、冬用の略式の正装をして歩いていたクレオンブロトス王は、中庭に面した廊下で立ち止まり、雪玉を投げ合って遊ぶ3人を見た。


 大きな雪ダルマを真ん中に、3人は子犬のように駆け回っている。


 白い雪玉が誰かの体で弾けるたび、上がる歓声と笑い声。


 無邪気で楽しそうなその光景に、クレオンブロトスも思わず微笑む。


 が、ふと、雪で遊ぶ3人の姿に昔の思い出が重なり、クレオンブロトスの顔に悲しみのかげがよぎった。


 彼が思い出したのは、かつて戦後の人質としてコリントスから来た少女。


 互いの気持ちを知りつつ、クレオンブロトスはあえて、愛する少女をコリントスポリスに帰した。


 国家間ポリスかんの不安定な政治情勢による、人質としての危険。


 それに、アゲシラオス王がやまいになってからというもの、何度もペイレネの身柄をエウリュポン王家に引き渡すよう圧迫を受け、彼女の身の安全を第一にはかるために帰したのだ。


 (平和会議が実現し、成功すれば、ペイレネ、またおまえに会えるだろうか?)


 クレオンブロトスの記憶の中で、少女は美しく微笑んでいる。


 黒くつややかな長い髪。聡明そうな顔だち。


 きらめく黒曜石こくようせきの瞳。柔らかいピンク色の唇。


 その唇がゆるやかに開いて……


「クレオンブロトスさま」


 少女の唇から太い男の声で呼ばれて、クレオンブロトスはぎょっとした。


 声をかけ、早足で廊下を歩いて来たのは、カーギル近衛隊長である。


 クレオンブロトスの尽力によって、ピレウス沖での裏切り事件の無罪は証明されたものの、スパルタに帰国してから起こした騒ぎにより、謹慎処分を受けていたカーギル。


 彼はやっときのうから、職場復帰したばかりだった。


 さらに付け加えるならば、彼の暴れまわったスパルタの街の被害に比べれば、これは例外的な、すこぶる軽い処分と言えた。


「クレオンブロトスさま、会議の準備が出来ました」


「ああ、カーギルか……」


「? どうかなさいましたか? 顔が赤いですぞ」


「えっ! いや、何でもない、何でもない。


 会議の準備が出来たんだな、全員揃っているか?」


「はい。エウリュポン王アゲシラオスさま、監督官エフォロイ5名、長老評議会28名、欠席者なし。」


 きびきびと答えるカーギルも、いつもの近衛隊の軍鎧ではなく、クレオンブロトスと同じく、足首まですそのある略式の正装姿である。


「結構だ。さぁて、いよいよだな」


 追憶から頭を切り換えたクレオンブロトスは、右手をこぶしにして左の手のひらを、ぱん、と打った。


「小うるさい年寄りどもを、片付けにいくとするか」


 そしてもう一度、中庭の幸せな光景に目を向けた。


 クレオンブロトスの視線を追って、カーギルも中庭を見た。


 その時、ティリオンは、巧みに雪ダルマの影に隠れた。


 何気なく視線を放っただけのカーギルには、中庭で、アフロディアとクラディウスのふたりだけが遊んでいるように見えた。


 クレオンブロトスに視線を戻して、カーギルは言った。


「しかしアゲシラオス王には、やはり助言者などとぬかして、フォイビダスがついてきております。


 奴がおとなしく黙っておりますかどうか」


「まあ大丈夫だろう」


 クレオンブロトスは、にやりと笑ってみせた。


「おまえに冤罪えんざいをかぶせられた上、クラディウスに毒を飲まされて、さすがに私も頭にきたので荒療治あらりょうじしてやったが、それが効いたとみえて、最近はすっかりおとなしくなったからな」


「はっ、その節は弟ともども、王にはひとかたならぬご迷惑をかけ、大変申し訳なく……」


 大きな体を屈めようとするカーギルを、クレオンブロトスが手のひらを向けて押しとどめる。


「もういい、詫びも礼も、一度でいいのだ。


 ただ、これからはくれぐれも短気を抑えるようにしてくれよ。


 いくら王とて、私の力にも限界がある。


 私は、大事なおまえを失いたくない」


「クレオンブロトスさま……」


「そんなしけたツラをするな。鬼の近衛隊長には似合わんぞ。


 さあ、これからが正念場しょうねんばだ、行くぞ!」


「はっ!」


 ふたりは並んで歩きだした。


 去ってゆく二人の男を、ティリオンは雪ダルマの陰からこっそり覗いた。


 (あの黒髪の大男には、見覚えがある。


  確か6年前、クレオンブロトス王のアテナイ視察について来ていた、近衛兵だ)


 6年前、アルクメオン家の館の、大廊下。


 ずらりと通路の両側に並んでいるのは、アテナイ軍の長アテナイ・ストラデゴス直属の、アテナイ軍兵士たちである。


 アテナイ・ストラデゴスのひとり息子であり、アルクメオン家の嫡子である12歳のティリオンも、鎧をまとい兜をかぶってアテナイ兵たちと並んでいた。


 敬礼するアテナイ兵たちの真ん中を、スパルタ近衛隊を従えた19歳のクレオンブロトス王が、威風堂々いふうどうどうと進んでゆく。


 スパルタ王族の豪壮な革鎧をつけた王の、黒いマントのなびくすぐ後ろを、背後の巨大な楯のように歩いていたのが、左頬に傷痕のある黒髪の大男。


 (あの時、私はまだ12歳だったし、後学こうがくのためにと、他の兵たちに混じって並んでいただけだった。


 クレオンブロトス王でさえ気づかなかったのだから、あの男からも隠れる必要はなかったかもしれないが……)


 そんなティリオンの思考を、アフロディアの大きな声が破る。


「こら、ティル!


 おまえはさっきから逃げてばかりではないか。


 いくら片手だって、もうちょっと真剣に戦わんか!」


「あ、はいはい。


 じゃあいよいよ、本気を出すとしますか」


 ティリオンは、雪の中で保護色となった銀の頭に手をやって、笑った。


 すっかりうちとけたクラディウスも笑い、アフロディアは、雪玉を構えて大きくふりかぶった。


「戦う時は、初めから本気でやれ、こいつめ、えいっ!」


 砕ける雪、弾ける銀の光。


 3人の楽しい遊び時間は、まだこれからだった。



――――――――――――――――*



【※アテナイ・ストラデゴス とは、役職名です。都市国家アテナイの、10人の将軍たちを束ねる、将軍長のことです】

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