それぞれの想い 5

 アテナイ・ポリス。


 小振りの城の規模があるアルクメオン家の、広い大理石の廊下を通って、アテナイ軍士官フレイウスは、両開きの白い扉の前に立った。


 美しい幾何学模様きかがくもようのレリーフの大きな扉を守る4人の衛兵が、フレイウスに向かって一斉に、胸にこぶしを当てる敬礼をし、フレイウスが敬礼を返す。


 4人のうちの2人が中央に寄って、両側から扉を引いて開け、フレイウスが室内に入ると、背後で静かに扉が閉められる。


 インクの香りのする執務室。


 左右の壁は、天井まで届く高い書棚に、書類や資料、書物がぎっしりと並んでいる。


 床の中央には、青地に金糸と銀糸で、今の季節の秋の星座を織った大きな絨毯じゅうたん


 正面奥には、大きな執務机。


 執務机の背後の壁には、アテナイ軍の紋章、ふくろう、を織った立派なタペストリーがかかっている。


 この部屋のあるじは、大きな執務机を離れ、タペストリーの横のアーチ型の窓のそばにたたずんで外を眺め、扉のほうに背を向けていた。


 フレイウスは部屋のなかほどで止まり、軍人らしい挙動で、かかとを、ぴしっとそろえた。


 カシャ、と腰の剣がかすかな金属音をたてる。


 胸にこぶしをあて、敬礼して言う。


「フレイウス、ただいま戻りました!」


 フレイウスの声にも、窓の外を眺め、腰の後ろでゆるく手を組んだ男は振り返らなかった。


 敬礼を戻し、直立不動のフレイウスと男の間で、しばしの沈黙が流れる。


 そして、薄青色の長衣の背をむけたままの男の、静かな低い声。


「失敗したな」


「失敗しました。申し訳ありません!」


 フレイウスの返事に、男は吐息をついた。


 それには明らかに、深い落胆らくたんがこめられていた。


 外を見ながら、ひとりごとのように男が言う。


「スパルタに逃げ込むとは、大胆なことを……


 だが確かに、我らアテナイに対して効果は絶大だ。さすがだ。


 フレイウス、おまえが手塩てしおにかけて長年おおしえし、訓練しただけの成果は上がっている、と言うべきか」


 苦い表情になる、フレイウス。


 小さな返事。


「……は、そのようです」


 男が続ける。


「しかし、師たるおまえのほうは、もう一息ひといきというところまで追い詰めておきながら、結局まんまと逃げられるなど。


 らしくもない、とんだ不首尾ふしゅびだ。


 一体どうしたというのだ?」


「申し訳ありません……」


 フレイウスは再度、びた。


 が、その声は、やや抑揚よくようを欠いていた。


 彼は、きちんと片づけられた執務机の上に、ぽつんと置いてある細長い木箱を発見していた。


 フレイウスのあおの目は、細長い木箱にくぎづけになり、その箱を強く求めて、体はやや前のめりにまでなっていた。


 背を向けたままの男が、敏感にそれを察知し、鋭く言う。


書簡箱しょかんばこを見ただけで、そのザマか!


 それでは失敗するのも当然だ。


 今のおまえには、それを開ける資格はないぞ!」


 はっ、としてフレイウスは、執務机の上の書簡箱しょかんばこから、引きはがすように視線を外した。


 改めて姿勢を正し、男の背を見つめ、緊張感のこもった声で答える。


「はいっ、本当に申し訳ありませんでした。オレステス将軍。


 このたびの任務失敗、深く反省いたしますゆえ、どうかご寛恕かんじょいただけますようお願い申し上げます!」


 男、アテナイ将軍オレステスは初めて振り向いた。


 少し白の混じる、栗色の髪。


 50代の威厳を備えた整った顔の、濃い茶色の目がフレイウスを見た。


 ひそめられる眉。


「なんと、平静さを欠き、その上にひどい恰好だ。


 急いで来ずともよい、とわざわざ伝えさせたのに、湯浴ゆあみのひとつもして身なりを整えてから、来ようと思わなかったのか?」


 うなだれるフレイウス。


 数多いギリシャの都市国家間を、あちこち逃げ回るティリオンを追って、数ヶ月。


 アテナイとは犬猿の仲のスパルタ領内に逃げ込まれ、追跡できなくなって、やむなく、約半年ぶりにアテナイに帰国した。


 そんな彼の、革鎧も服もマントも皮の長靴も、そして彼自身も、旅のほこりで汚れきり、あちこちいたんだままだった。


 乱れている黒髪が何本か、はらりとひたいにかかる。


 苦渋のにじむ声。


「すみません。


 帰国してすぐに、数日前、ピレウス港にスパルタの黄金獅子きんじしが来襲してきた、との話を耳にしました。


 それが原因で、私がお願いしたことがだめになったのではないか、と心配になり、取るものもとりあえず参上してしまいました」


 頷く、オレステス将軍。


「なるほど。情報をつかむのが早いのはいいことだ。


 正確には、その事件は4日前に起こった。


 黄金獅子きんじしはピレウス湾内にまでは来襲せず、ピレウス沖合いの小島付近で発見され、我が方の艦隊と戦闘になった。


 確かに黄金獅子きんじし の来襲の結果、現在、議会は紛糾ふんきゅうしている。


 だが今更、おまえが身なりも整えられないほどあわてたところで、どうこう出来るものではあるまい」


「それは、そうなのですが……」


 ぼろぼろになって戻ってきたフレイウスに、オレステス将軍がさとすように言う。


「スパルタに逃げ込まれて、焦るおまえの気持ちは分かる。


 なんといっても、あのスパルタだ。危険な場所だからな。


 が、捕まえられない原因のひとつは、おまえの、そのつねならぬ焦りだぞ。


 任務失敗を反省するなら、もっと冷静になれ。


 冷静にならねば、いくら追っても、手ごわく育った教え子に、この先、何度でも出し抜かれるだけだぞ」


「はい」


「初心に返って、肝に命じておけ、『焦りは禁物、冷静さこそ成功への最短距離』とな」


「わかりました」


 会話が、途切れた。


 フレイウスは全身で、ひたすらオレステス将軍をじっと見つめていた。


 オレステス将軍も、経験の光をたたえた目で、フレイウスを観察するように見返していたが、やがて苦笑して言った。


「まあいいだろう。


 とりあえず、おまえの欲しがったものを見るがいい。


 喉から手の出ないうちにな」

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