それぞれの想い 4 *

 ホホホホホホ……


 柔らかい笑い声が響いて、争っていたふたりが止まる。


 扉の前で、ずっとふたりの様子を見ていた婦人が、口に片手をあてて面白そうに笑っていた。


 ふっくらとした体に似合った、まろやかな声で言う。


「姫さま、もう許しておあげなさいませ。


 体がもっと回復してくれば、自然と食も進むようになりましょう。


 しばらくは、そっとしておいてさしあげたほうがよろしいのかもしれませんよ」


「でも、乳母うばや。


 こいつが早く元気になれるよう、私は何かしてやりたいんだ」


 と、アフロディア。


 アフロディアの乳母うばである婦人は、にっこりとした。


「時には、何もしないでおいてあげる、というのも、何かをしてあげる、と同じくらい良いことなのですよ。


 殿方というのは、あまり無理じいする女性を好まれないかたが多いものです、姫さま」


 アフロディアの目が、まんまるになった。


 あとじさって、とうとう壁にはりついてしまったティリオンをうかがうように見る。


 頬をちょっぴり赤くして、しぶしぶ言った。


「仕方ない、今日のところは、食べさせるのをやめておく」


 ほっとして、感謝の目を向けるティリオンに、アフロディアの乳母うばは優しく微笑みを返した。


 そして、ふたりの様子に安心したのか、入ってきた時と同じように静かに出ていった。


「姫さまの乳母うばさまは、優しいかたですね」


 ティリオンが言い、アフロディアが頷く。


「うん。乳母うばやは優しい。それにいつも、私の味方なんだ。母上さまと同じだ」


「姫の母上さまは?」


「母上さまも父上さまも、私が5つになる前に、はやりやまいで亡くなった。


 だからもう、お顔もあまり憶い出せないが、もし母上さまが生きてらしたら、きっと乳母うばやと同じような感じだと思うんだ」


「そうでしたか……」


 苦しげな、ひどく痛ましげな顔をして見つめるティリオンに、アフロディアは元気よく笑ってみせた。


「でも、私は寂しくなんかないぞ!


 私には乳母うばやがいるし、兄上さまがいらっしゃる!」


 両手を腰にあて、誇りに満ちて胸を張るアフロディア。


「私の兄上さまは、立派なおかたなんだぞ!


 強くて、優しくて、とてもかしこいんだ。


 スパルタの兵たちは皆、兄上さまを慕っている」


 15才のスパルタ王女には、純粋に兄王を敬愛する素直な気持ちがあふれていて、ティリオンの笑みを誘う。


「ええ、聞いていますよ。


 勇猛ゆうもう英断えいだんのクレオンブロトス王、スパルタの黄金獅子きんじしと。


 本当に、素晴らしい兄上さまですね」


 彼は、6年前にアテナイで見たクレオンブロトス王の立派な姿を思い出していた。


「生まれながらに王者の風格をもつとは、あのような方のことでしょうね。


 まさしく、黄金のたてがみを持った獅子……」


 アフロディアが、きょとんとして言った。


「おまえ、兄上さまを見たことがあるのか?」


 喋り過ぎたことに気づき、ぎくりとするティリオン。


 彼はあわてて話を変えようとした。


「い、いえ、そういううわさを聞いただけです。


 ああそうでした。姫さまが、せっかく持ってきてくださった食事をいただかなくては。


 そろそろお腹もすいてきましたし、ね。


 姫さまもご一緒にいかがですか?」


「うーん、私は侍従長がうるさいので、もう済ませてきてしまったが……」


 言いかけて黙り込み、急に、はっとした顔になるアフロディア。


 まずい! 何か気づかれたのでは、と、ひやりとするティリオンに、姫ぎみは非常に嬉しそうに、白い歯で、ニッと笑いかけた。


「そうだ、一緒に食事、というのは、おまえ、すごくいいことを思いついたな。


 私もおまえと一緒に食事がしたい!


 きっと楽しいぞー。次からは絶対そうしよう。


 うん、うん、ずっと、ずう――っと、そうしよう!」


 それから、左、右、と、順番にティリオンの手をとり、自分の胸の前で両手で包み、ぎゅっと握りしめた。


「そうか、そうか、おまえは私と一緒に食べたかったのだな。


 早く言えばよかったのに。遠慮は無用だぞ。


 おまえの望みは、できるだけ叶えてやるからな。安心するがいい。


 私と一緒に食事すれば、食も進んで、たくさん食べられるようになるに違いない。


 次は、もっとたくさん食べ物を持って来てやる。


 食が進んで、足りなくなったら大変だ。おまえにひもじい思いはさせたくない。


 めいっぱい食べて、早く元気になれ、ティリオン!」


「えええっ!


 もっとたくさんって……そ、そんな……


 えーと……あの、その……は……はははははは、はぁー……」


 つい何気なく発してしまった社交辞令の結果に、ティリオンの愛想笑いは引きつっていた。


 そして「スパルタ人には、社交辞令は通じない」ということを、アテナイ人ティリオンが理解し、慣れるまでに、何度かひどい目にあわねばならなかった。



――――――――――――――――*



人物紹介


● ティリオン(18歳)……自分の父親の将軍長アテナイ・ストラデゴスを斬る、という大事件を起こし、アテナイ軍から逃げている美貌の青年。

 複雑な生い立ち、背景を持っている。


● アフロディア姫(15歳)……二王制軍事国家スパルタの、アギス王家の王女。

 クレオンブロトス王の妹。じゃじゃ馬姫。ティリオンに恋している。

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