臆病楽士 5 *

 クレオンブロトスがやっとの事で、凄い剣幕けんまくの妹の手を外した時、足音がして部屋の入口に執務官が顔を覗かせた。


「ああ、やっと見つけました。


 王、早く執務室にお戻りください。


 こんなとこで遊ばれていては、どんどん仕事が溜まって困ります」


「うー、げほげほ、今いく。


 さあ降りろ、アフロディア、兄をあまり困らせるな」


「でも! でも兄上!」


「だだをこねずに降りなさい!


 私は仕事があるのだ。私が行かなければ、皆が困るのだぞ」


 やむなく、アフロディアは兄の膝から降りたが、クレオンブロトスが、


「それでは楽士どの、演奏の件はよろしくな」


と、軽く言って執務官と出ていこうとしたため、再び叫んだ。


「兄上、無理だ! ティルには無理だ!


 すごい怖がりなんだ!!」


 妹のあまりに悲痛な叫びに、さほど深刻にこの問題を受け止めていなかったクレオンブロトスも思わず振り向き、眉をひそめた。


「アフロディア、おまえ……」


「お願い、兄上。


 ティルは、そんな大勢の前でひくのはとても怖いし、絶対、嫌だと言ってる」


 クレオンブロトスはあらためて楽士の方を見た。


 臆病な楽士は、椅子に座って両肘りょうひじをつかんだまま、深くうつむき、長い髪の銀のまゆに閉じこもってしまっている。


 王は、やれやれ、というふうにため息をつき、あごに手をあてた。


 執務官が横から急かす。


「王、皆が待っております。お早く」


「ああ分かっている。すぐ済むからちょっと待て」


 いつものポーズでしばし考えを巡らした多忙な王は、やがて言った。


「ではこうしよう。


 大勢の前に出るのがそれほど怖いというのなら、幕の後ろか、何かに隠れて琴をひいてくれればいい。


 あれほど美しい音色をこのままにしておくのは、どう考えてももったいないからな。


 これなら大丈夫だろう、楽士どの?」


「でも兄上、ティルは……」


 まだ口を出そうとする妹を、クレオンブロトスは軽く睨んだ。


「おまえが答えなくともよろしい、アフロディア。


 楽士どのにも、答える口はちゃんとある。


 第一、いくら怖がりでも、楽士が舞台で楽を奏すのを嫌がっていては仕事にならんではないか!」


 それからクレオンブロトスは、臆病な楽士にできるだけ優しく話しかけた。


「楽士どの、そなたはいい腕を持っている。


 このまま埋もれさすには惜しい腕だ。


 せっかくのその腕を、世の中に広く知らしめる機会をのがさんほうがいいのではないか?


 そなたの将来のためにも」


「………」


「いいか、楽士どの、もっと自信をもて!


 そなたの楽の音の素晴らしさは私が保証してやるから、勇気を出してやってみるんだ。


 どうだ、出来るな? やってくれるな?」


「………」


「おい、どうなんだ? 頼むから返事をしてくれ!」


 ティリオンは、細く、細く、息を吐いた。


 小さな声。


「わかりました。幕の後ろでならば……」


「ようし、えらいぞ!


 だが楽士どの、その気の弱ささえ克服こくふくすれば、そなたはまこと、世界一の楽士になれる。


 今回はいいが、次からはもっとがんばるようにな」


 臆病な楽士を励まそうと、あたたかい声援を送ってくれるクレオンブロトス王に、黙ってただ頷くしかないティリオンだった。



――――――――――――――――*



人物紹介


● ティリオン(18歳)……自分の父親の将軍長アテナイ・ストラデゴスを斬る、という大事件を起こし、アテナイ軍から逃げている、美貌の青年。

 複雑な生い立ち、背景を持っている。アフロディア姫の恋人。


 姫と共謀し、アテナイ人であることを隠して、現在、楽士としてアギス王宮にいる。


● アフロディア姫(15歳)……二王制軍事国家スパルタの、アギス王家の姫ぎみ。クレオンブロトス王の妹。じゃじゃ馬姫。ティリオンの恋人。


● クレオンブロトス王(25歳)……二王制軍事国家スパルタの、アギス王家の若い王。アフロディア姫の兄。

 強くたくましく、賢い王で『スパルタの黄金獅子きんじし』とも呼ばれている。

 コリントスポリスのペイレネ嬢を愛しているもよう。


● クラディウス(18歳)……アフロディア姫の、頼りになる幼馴染。カーギル近衛隊長の弟。

 アフロディア姫を密かに愛している。

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