臆病楽士 4

 ふたりのなごやかな様子に、すっかり嬉しくなったアフロディアが言った。


「兄上、ティルはとても役に立つであろう? 


 ティルはとても頭がいいし、これからもきっと兄上のお力になりますぞ。


 だから、ずっとここにいてもいいであろう?


 な、兄上、ティルをおかかえにして、ずっとここにいさせよう!」


 愛妹の懸命の推薦すいせんに、甘い兄王は苦笑して、ついに首を縦に振った。


「そうだな。


 楽士どのさえ、ご承知くださるのならば」


「ワ――イ、やった――っ!!」


 歓声と両手をあげ、大きく反り返るアフロディア。


 椅子ごと後ろに倒れそうになるのを、微笑みながらクラディウスがしっかり支えた。


 クレオンブロトスは、ティリオンに優しい目をあてた。


「楽士どの、妹はああ言っているが、もちろん強制ではない。


 しかし、そなたの事情の許す限りここにいてくだされば、私も嬉しい」


 複雑な気持ちで、ティリオンは頭を下げた。


「身に余るご好意、感謝の念にたえません」


 クレオンブロトスは、笑って頷いた。


「では決まりだな。


 それでな楽士どの、早速だが、そなたにもう一つやって欲しいことがある。


 こちらは楽士であるそなたにとって、良い仕事だと思う。


 春の平和会議の時、集まってくる平和使節たちの前で、琴を奏してもらいたいのだ」


「春の平和会議?」


 不思議そうな顔の3人に、にこにこと微笑むクレオンブロトス。


「そうか、おまえたちにはまだ言ってなかったな。


 今春、我がスパルタで、ギリシャ統一にむけての平和会議をすることになったのだよ。


 そのため、ギリシャの全ポリスから平和使節団がやって来る。


 お互いに争いをやめ、ギリシャを一つの国にまとめる話し合いをするためにな。


 そうだ、平和会議が成功すれば、コリントスのペイレネにも会えるようになるぞ、アフロディア」


「ペイレネに?!」


「ペイレネさまに?!」


 アフロディアとクラディウスのふたりが、大きく声を上げる。


 アフロディアは興奮して椅子から飛びおり、兄に駆け寄って、その膝に馬乗りになった。


「ペイレネが、ペイレネが春に来るのか、兄上?!」


「ははははは、春の会議には来ないだろう。


 だが、平和会議がうまくいけば、いつだって会えるようになるさ」


「すごい! すごい! 兄上!


 またペイレネと遊べるんだな!」


 アフロディアは逞しい兄王の体に抱きついた。


「兄上、ありがとう!


 私の兄上は、やっぱりすごいおかただ。


 兄上大好きっ!」


 クレオンブロトスは、愛しげに妹の金髪を撫でた。


 そっと呟く。


「そうさ。平和になれば、別れの悲しい思いをしなくて済む」


 嬉しそうにクラディウスが言った。


「ペイレネさまかぁ、懐かしいなあ。お綺麗なおかたでしたよね。


 それにとても親切な方で……俺、困ったことがあったとき、よく相談に乗ってもらったりしたんです。


 早くお会いしたいなあ。


 でもすごい会議ですね、信じられないくらいだ。


 本当に、全部のポリスがこのスパルタに来るんですか? クレオンブロトスさま」


「ああ、来る。主要なポリスは、全部な。


 コリントス、テバイ、メガラ、アルゴス……


 北方の、イピロスやテッサリアやマケドニアやトラキアの、それぞれの地方の各ポリス。


 エーゲ海の島々のボリス群、全部だ。


 あのアテナイまで来るぞ!」


 兄の胸にごしごし体をこすりつけていたアフロディアの動きが、ぴた、と止まった。


 クレオンブロトスは上機嫌で続けていた。


「そこで、だ。


 手の怪我も治ったようだし、全ポリスから集まる使節たちの前で、楽士どのの、あの美しい音色を披露してもらいたいのだ。


 そなたの琴の音は、人の心をなごませる。


 きっと平和会議にいい効果をもたらすだろうし、そなたにとっても名を上げ、腕をふるえるいい機会だと思う。


 ひきうけてくれるな? 楽士どの」


 ティリオンは蒼白だった。


 小刻みに震えてしまう体を止めようと、自らを抱くように両肘りょうひじをつかむ。


 クレオンブロトスの、気遣いと不審の混ざり合った声。


「どうした? 顔色が悪いぞ、楽士どの。


 震えておられるようだが……気分でも悪くなられたか?」


 それに答えたのは、兄の胸から顔を上げたアフロディアだった。


「兄上、ティルは……ティルは……怖がっているんだ。


 兄上も、ティルの怖がりはよく知っておられるだろう?


 だから、そんな大きな舞台を務めるのは無理だ。


 あがってしまって、うまくいかないだろう」


「なんだって? 舞台が怖い?


 しかし楽士なのだから、そんな事を言ってはおれんだろう」


「だめだ、だめだ!


 緊張して、きっと失敗するに決まってる。


 やらせない方がいい!」


 アフロディアは、兄の簡素な長衣の首元くびもとを締め上げるように握った。


「そんな事、やらせないでください、兄上!」


「どうしたのだ? アフロディア。


 おい、そんなにきつく、苦しいではないか」


「ティルには無理だ! 怖がりなんだから!」


「うっ、ぐっ……苦しい、馬鹿者、離せ、アフロディア!」

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