臆病楽士 3 *

 きびすを返したクレオンブロトスは、すたすたと歩いてテーブルに行き、椅子のひとつに座った。


 ティリオンが、ちら、とアフロディアに不安の視線を投げてから、おずおずとクレオンブロトスの後に続き、向かい側に座る。


 やや緊張のとけたアフロディアも、クラディウスと疑問の顔を見合せた後、テーブルに行ってティリオンの横に座った。


 椅子はもうひとつあったが、クラディウスだけは座らずに、護衛らしくアフロディアの後ろに立った。


 テーブルに薬草の書類を置き、クレオンブロトスは切り出した。


「頼みというのは、このスパルタのもうひとりの王、アゲシラオスさまのことだ」


「エウリュポン王家の王さま、でございますね」


 と、ティリオン。


 クレオンブロトスが頷く。


「そうだ。そのアゲシラオスさまの容体ようだいが、このところよくない。


 エウリュポン王家の侍医じいも、さじを投げている状態ときく。


 そこで、薬草の知識の深いそなたに、何か良い薬を調合してもらえないか、と思ってな」


 アテナイ医学アカデミーで最優秀成績を修めていたティリオンの、医師としての頭脳が働き始めた。


「失礼ですが、アゲシラオス王はお幾つでらっしゃいますか?」


「72歳だ。だからお具合が悪いのはやまいだけでなく、お年のせいもあろうがな」


「どのような症状がございますか?」


「痩せてきて、よく居眠りをする。顔色が悪い。もの忘れが激しい。


 それから他に……うーん、何があったかな」


 ティリオンは難しい顔になった。


「申し訳ありませんが、今の症状をお聞きしただけでは、私には診断がつきかねます。


 診察させていただければ、おちからになれるかもしれません」


「それが出来ればいいのだが、無理なのだ」


 クレオンブロトスは吐息をついた。


「アゲシラオス王はやまいになられてから、ここ数年、ひどく疑り深くなっておられてな。


 我らアギス王家の者を、決しておそばに寄せつけなくなってしまわれた。


 そなたが私の元からつかわされたとなれば、ますます疑いをもたれ、誤解を招く危険がある。


 以前は、あのようなかたではなかったのだが……」


 クレオンブロトスの脳裏をよぎるのは、元気だった頃のアゲシラオス王である。


 かつてアゲシラオス王は、アギス王宮に遊びにくると、幼かったクレオンブロトスによく戦話いくさばなしなどを聞かせてくれ、兵法へいほうの手ほどきまでしてくれたのだ。


 英明王えいめいおう、と讃えられていたアゲシラオス王は、どちらかといえば凡庸ぼんようだったクレオンブロトスの父王より、ずっと頭も良く、覇気はきある立派な王だった。


「そうですか」


 相槌をうつティリオンの方は、医師としての分析以外に、アテナイ・ストラデゴス子息として受けた教育の習慣が、彼に心の隅でこんなことを考えさせていた。


 (外からはがっちりまとまっているように見えるスパルタでも、内に入ってみると亀裂があるんだな。


 それもこの様子では、かなり深刻なものだ。


 このまま、二つの王家の信頼関係が薄れ、亀裂が深まれば、無敵のスパルタとて危ないかもしれない)


「では、体力のつく滋養強壮剤を調合いたしましょう。


 体力が回復すれば、やまいの進行がくい止められる場合が多うございますから。


 しかし、お薬のほうは、その……


 疑い深くなっておられるアゲシラオス王に、お届けできるのでございますか?」


 遠慮がちに尋ねるティリオンに、クレオンブロトスは薄く笑った。


「まあ、な。


 この前の毒薬事件を少々、応用してみるつもりだ。


 もちろん、良いやり方ではない。


 だがようは、アゲシラオスさまに元気になっていただければいいのだからな。


 他に方法がないとなれば、目をつぶってもらおう」


 しばしの沈黙ののち、ティリオンはしみじみと言った。


「クレオンブロトスさま、あなたさまがおられるかぎり、スパルタは安泰でございましょう」


「おいおい楽士どの、それこそ過分かぶんめ言葉だな」

 

 赤くなったクレオンブロトスが、照れ笑いをする。


 ティリオンも思わず、口許がほころんでいた。



――――――――――――――――――*



 人物紹介


● クレオンブロトス王(25歳)……二王制軍事国家スパルタの、アギス王家の若い王。

 強くたくましく、賢い王で『スパルタの黄金獅子きんじし』とも呼ばれている。

 コリントスポリスのペイレネ嬢を愛しているもよう。


● ティリオン(18歳)……自分の父親の将軍長アテナイ・ストラデゴスを斬る、という大事件を起こし、アテナイ軍から逃げている、美貌の青年。

 複雑な生い立ち、背景を持っている。アフロディア姫の恋人。


 姫と共謀し、アテナイ人であることを隠して、現在、楽士としてアギス王宮にいる。


● アフロディア姫(15歳)……二王制軍事国家スパルタの、アギス王家の王女。クレオンブロトス王の妹で、じゃじゃ馬姫。ティリオンの恋人。


● クラディウス(18歳)……カーギル近衛隊長の弟。アフロディア姫の幼馴染。

 密かにアフロディア姫を愛している。

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