臆病楽士 2

「兄上?」


 薬草の書類を真剣に読み込んでいたクレオンブロトスは、おもむろに目を上げ、きょとんとしている妹に焦点をあわせた。


「ああ、アフロディアか、お帰り」


「急にお出ましとは、どうなさったのですか?


 今日はお仕事はないの?」


 アフロディアは不思議そうに尋ね、それから、兄の手の中にあるものに気づいて、ぎくりとした。


 以前、ティリオンがここから旅立ちたいと望んだ時、アフロディアに贈った薬草の書類だ。


「あの、兄上……」


「おまえを待っていたのだ。


 なに、元気にしているかどうか、ちょっと様子を見にな。


 それから、楽士どのにはいい仕事を持ってきたぞ。


 今度、平和会議のとき、そなたに琴をひいてもらおうと思っているんだ」


 そう言いながら、アフロディアとクラディウスの後ろに、隠れるようにして立つ楽士を覗きこんだクレオンブロトスは「あっ!」と声を上げていた。


 手元の書類を見、楽士に視線を戻して、呟く。


「そうか、なるほど、これはそなたが……」


「兄上っ、聞いてください。


 私たちね、今日、とてもおもしろいものを見たのですよ!


 テントウムシが、朽ち木の中でたくさん寄り集まっていたんです」


 話をそらせようと、アフロディアは兄王の腰にしがみついて必死に話しかけた。


 だがクレオンブロトスは、妹を無視した。


「楽士どの、この書類はそなたが書いたものか?」


「私がつついたら、私の頭にいっぱい飛んできて、くっつくのです」


「もし、もしそうならば、そなたにぜひ頼みたいことがある!」


「クラディウスがそれを見て喜んで、私の髪をお日様と間違えているのだと……」


 クレオンブロトスは、うるさくまとわりつく妹をひきはがした。


「こら、ちょっと黙っててくれ。


 おまえの話は後で聞く。


 私は大事なことで、楽士どのに尋ねたいことがあるのだ」


「でも、でも、兄上!」


「しっ、おとなしくしていなさい!」


 兄王に脇にどけられて、青ざめ、唇を震わせるアフロディア。


 ティリオンの顔も青い。


 ただひとり、何のことかわからずぽかんとしているクラディウスの横を通って、クレオンブロトスは楽士の前に立った。


 薬草のかいてある書類を見せる。


「これは、そなたが書いたものであろう?


 そなた、あの毒薬事件の時に、医術の心得があると言っていたな?」


「………」


「そう怖がるな。


 何も叱ろうというのではないぞ。正直に答えてくれ」


「………」


「どうなのだ、楽士どの。黙っていてはわからんぞ!」


「………はい」


 クレオンブロトスは頷いた。


「やはりな。


 たいしたものだ。あらためて感心したぞ、楽士どの。


 そなた、医術をかなり学んだな。


 いささか、どころではあるまい。


 どこでこれだけのものを学んだのだ?」


「………」


「キプロス島でか?」


「はい」


 この即答に直観的な疑惑が走り、ほとんど無意識のうちにクレオンブロトスの手は伸びていた。


 左手で、楽士の顎をつかむ。


 徐々にうつむいて、髪で隠されつつあった美貌の白い顔を、くい、と上げさせる。


 はっ、とエメラルドの目が、驚きで大きく見開かれた。


 その瞳に、強い恐怖の色と、それ以外の何かがあるのを見て取ったクレオンブロトスは、その何かを見極めようとした。


 書類を持った右手を楽士の肩にのせて、のがれられないよう押さえた。


 黄金獅子きんじしに押さえつけられた楽士……ティリオンの口から小さな悲鳴が漏れ、アフロディアが叫んだ。


「兄上やめてっ!


 ティルはちゃんと答えたのに、これ以上怖がらせないで!!」


 ぎくりとして、クレオンブロトスは手を離した。


 さっき、短剣の柄元つかもとのエメラルドの色を見て、自分の疑いを反省した事が心に浮かんだ。


「あ、すまない。


 どうも最近、私は考えすぎのようで……


 怖がらせるつもりはなかったのだが」


 ふたりの間に素早く体を割り込ませたアフロディアが、兄を睨みつける。


「兄上にあんなふうに睨まれたら、私以外は誰だって怖いに決まってるではありませんか!」


「いや、何も睨んだわけではないぞ」


「いいえ! 確かに睨んでおられた。


 もの凄く恐ろしい目つきでしたぞ!!」


「そうか? そうだったかな? それはすまなかった」


 クレオンブロトスは妹の後ろの楽士に向かって、素直に金髪の頭を下げた。


「すまなかったな、楽士どの。許してくれ」


 王に頭を下げられたティリオンが、恐縮して、首と両手を振る。


「いえ、いいのです。


 王、もうおやめください!


 私のようなものに、王がそのような……


 私は、何とも思ってはおりませんゆえ」


「そうか、それならばよいが」


 頭を上げたクレオンブロトス王は、にっこり笑い、なかなか抜け目のないところを見せて言った。


「確かに先程さきほどのは、人にものを頼む時の態度ではなかったな。


 楽士どのが許してくださって、本当に良かった」


 ティリオンとしては、王にこんなふうに言われてしまっては、おそるおそる、おうかがいをたててみるしかなかった。


「いえ……


それで、私に頼みとは、何でしょうか?」


「うん、それがな……まあ座って話そう、楽士どの」

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