最終章 別れ

別れ 1

 林の中、王女アフロディアは生まれて初めて、剣で人を殺した。


 目の前の最後のひとりを倒したあと、肩で大きく息をしながら見回し、さらなる敵兵の接近を探る。


 どうやら弓兵や待ち伏せ兵はこれで全部で、新たな敵もとりあえずはいないようだ。


 共にこの林に入った隊の兵は、皆、倒されていた。


 ついさっきまで一生懸命、アフロディアのご機嫌をとろうとしていたあの士官も。


 忠実なスパルタ兵たちは、王女のまわりに輪になるようにして、倒したテバイ兵と混じり合い、全員死体となって転がっていた。


 アフロディアは、訓練された無意識で剣を振って血を払った。


 死体の輪を越えて、たったひとり林の奥に踏み込む。


 林の奥も死体だらけだった。


 無残に血にまみれて散乱する死体に、アフロディアはたくさんの見知った顔を見つけていた。


 剣の稽古をつけてくれた者。


 弓のうまかった者。


 馬術の巧みだった者。


 格闘の強かった者。


 皆、全て死んでいた。


 しびれたような心で、アフロディアは兄王の姿を求めて歩いた。


 (兄上さまは強いおかただ。兄上さまはきっと生きていらっしゃる!)


 呪文のように頭で繰り返しながら、死体の散乱する林を進む。


 死体。


 死体。


 死体。


 死体ばかり。


 (兄上さまは強いおかただ。兄上さまはきっと生きていらっしゃる!)


 人の気配がした。アフロディアは茂みに身を伏せた。


 草葉の陰からのぞくアフロディアの前を、テバイ兵が3人、走り去っていった。


 (兄上さまは強いおかただ。兄上さまはきっと生きていらっしゃる!!)


 アフロディアは敵を警戒して、茂みを匍匐前進ほふくぜんしんした。


 そして、まるで誰かによって茂みに隠されたように倒れている、ひとつの体に行き当たった。


 左手は斬られて無く、他の三肢も力なく投げ出されている。


 凄まじい力で鎧ごと袈裟けさがけに大きく割られ、ぱっくりと傷の開いたままの体。


 血の気をうしなったろうのような色でもなお、男らしい精悍せいかんな顔。


 転がったかぶとのそばの、かたそうな黒髪に赤いバンダナを巻いた頭。


「クラディウスっ!!」


 思わず叫んで素早く這い寄り、震える手で頬に触れる。


 ぴく、と、クラディウスのまぶたが動いた。


「い、生きてる、生きてる、生きてる!


 クラディ、クラディ、クラディっ!!」


 名前を連呼れんこしながら、抜き身の剣を置いて膝を揃えて座り、ぐったりした黒髪の頭をそっとのせた。


 膝の上でクラディウスの灰色の目が、そろそろと開く。


「ああ良かった、生きてる!


 クラディ、しっかりしろ、私だ、アフロディアだ。


 私が来たからもう大丈夫だぞ! すぐ助けてやるぞ!


 だからしっかりしろ! な、クラディ、クラディ、クラディ……」


 かすかな声。


「……ひ……め……?」


 アフロディアの涙が、ぽたぽたとクラディウスの上に落ちる。


 黒くかたい髪を、アフロディアは優しく撫でた。


「クラディ、こんな傷、どうってことないぞ。おまえならすぐに良くなる。


 おまえは強いスパルタ戦士なんだからな。すぐに良くなる。


 だから、気をしっかり持て、がんばれ!


 そして、私と一緒にスパルタに帰ろう。


 な、一緒にまた遊ぼう、クラディ」


 クラディウスは笑った。


 楽しそうに、嬉しそうに。


 土気色の唇が動く。


「………」


「え? 何だ? クラディ」


 アフロディアはクラディウスの口に耳を寄せた。


 小さな耳元で、かろうじてささやかれる言葉。


「……約束……守りま………奴……生き……」


 クラディウスの体が痙攣けいれんし、かく、と首が落ちた。


「え?」


 アフロディアが不思議そうに、息の止まった幼なじみを見る。


「クラディ? どうした?」


 彼女の問いかけにも、もはや幼なじみは二度とこたえない。


 優しかったスパルタ青年は、死んでいた。


 最も愛した少女の腕の中で、微笑んで。


「クラ……クラディ? クラディ? クラディ?


 こら、寝るな。起きろ!」


 その死をまだ飲み込めないアフロディアが、幼なじみの体を揺する。


「クラディ、こら、こんな時に寝てる場合か?


 クラディウス、馬鹿者、起きろ!」


 アフロディアの頭は、動かぬクラディウスに、徐々にその死を悟り始めていた。


 だが心はそれを認めようとしない。


 アフロディアは虚ろに笑った。


 冷たくなってゆくクラディウスの体を抱きしめる。


「ははは、しょうがないな、よっぽど疲れたんだろう。


 起きるまで待っててやる。な、クラディ。


 ずっと待っててやるからな」


 死体に話すアフロディアの背後には、さっき通りすぎた3人のテバイ兵が戻ってきて忍び寄っていた。


 3人は目配せを交わし合い、姫ぎみを捕らえるべく両手を広げ、じりじりと接近した。


 兜代かぶとがわりの鳥の翼をした頭飾りの下の、姫ぎみの黄金の髪が、褒美ほうびの金貨のように彼らには見えていた。

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