テバイ使節団 5

 アフロディアの指が、クラディウスの服の胸をすがるようにきつくつかんだ。


「私はティリオンを手放したくなかった。そばにおいておきたかった。


 ティリオンは最初、ここから逃げ出したがったのに、私が逃がさなかった。


 前にペイレネが使ってた部屋に、鍵をかけて閉じ込めたり、今の部屋に移した時は、夜は足かせをはめたりして……」


「ひ、姫!」


「朝になったらいなくなっているんじゃないか、と心配で心配でたまらなかったんだ!


 でも、それはすぐにやめた。


 ティリオンは、逃げない、と約束してくれたし、今は何もしてない。


 ほんと、ほんとだ!」


「………」


「そう……みんな、私のわがままでこうなった。


 それはわかってる。


 だから、何かいい方法はないかと……


 ティリオンを守るいい方法はないかと、ずっとずっと考えているのだけれど、思いつかない。


 会議まであと半月しかないのに。


 今からでもティリオンをここから逃がしてやった方がいいことも、分かってる。


 でも、ティリオンがいなくなるなんて……そんな……そんなこと……私には耐えられない……」


 激しい感情の奔流ほんりゅうに、足の力が抜け、ずるずると崩れそうになったアフロディアを、クラディウスはあわててしっかりとかかえ直した。


 そんなクラディウスの腕の中で、うわごとのように熱く発せられたアフロディアの言葉は、炎ともえさかる恋、命がけの愛、そのものだった。


「愛してる、愛してる、愛してる……


 私はティリオンを心から愛してる。


 どうしようもないくらい愛してる。


 ああ、気が狂いそうなくらいティリオンが好きだ!


 私はティリオンを愛してる。


 ティリオンと離れたくない!!」


 クラディウスの胸は、深くえぐられていた。


 心の底では悟っていながら、言葉をもってはっきりと知らされるアフロディアの気持ちに、歯を食いしばり、心の苦痛に必死に耐える。


 心が血を流す苦しみに細められた目に、一本の木のそばに立って、ぽかんとこちらを見ている黒髭くろひげの男が映った。


「何者かっ?!」


 素早くアフロディアを後ろに庇い、剣のつかに手をかけるクラディウス。


 目当ての娘を見失い、森を捜し回ったあげく、抱き合っていたふたりを発見し、少なからずショックを受けている黒髭くろひげの男、ペロピダスが、間の抜けた答えを返した。


「こんなところで何をしている?」


「何だとっ、それはこっちのセリフだっ!


 きさまっ、何者かっ?!


 答えなければこの場で斬る!」


 クラディウスの鋭い誰何すいかに、やっと我に返ったペロピダスは、あわてて両手を胸まであげて振った。


「いや、失礼した。


 私はテバイ使節団警護隊長の、ペロピダスという者。


 平和会議のためにやってきた。怪しいものではない」


「テバイの……警護隊長……」


 クラディウスのうしろで立ち直り、腰の短剣に手をかけていたアフロディアの小さな声。


 ペロピダスの答えを聞いても構えを崩さないクラディウスが、さらなる質問を投げつける。


「テバイの警護隊長が、なぜこんな所にひとりいるのかっ?!」


「え? それは、その……道に迷って……」


 しどろもどろで言いながら、ペロピダスは素早く退散する腹を決めた。


「いや、誠に、お取り込み中のところをたいへん失礼した。


 邪魔をするつもりはなかったのだ。


 では私はこれで……」


 スパルタ青年の、突き刺すような視線を背中に感じながら、ほうほうのていで逃げだすペロピダス。


 その心中には、ぎざぎざになって割れたハート。


 (ちくしょーっ、先約有せんやくありかよ!


 そりゃ、あんなにかわいい娘なんだものなーっ。


 でも惜しいっ! おしいなーっ!


 あーあついてねぇよ、全く)


 黒髭くろひげのテバイ男が去った後、アフロディアが震える声で言う。


「どこまで、聞かれたと思うか? クラディウス」


「わかりません、うかつでした」


 あたりの様子に、まだ油断なく気をくばるクラディウスの声に、殺気がこもる。


「斬っておいた方が、いいでしょうか?」


「まさか! 平和会議に来た者を……


 でも、もし、全部聞かれていたとしたら……


 大変だ、ティリオンが危ない!


 どうしようクラディウス。あああっ、また私のせいだっ」


「落ちついて、姫!」


 両手で頭をかきむしりはじめたアフロディアを、クラディウスは止めさせた。


 アフロディアの告白で深く傷ついている自分の心を、いたわる余裕などなかった。


「大丈夫、あれはテバイの者です。


 アテナイじゃない。


 話を聞いていたとしても、詳しい意味は分からなかったはずだ。


 まだ、何とかなる……俺が何とかします」


「クラディウス……」


「とりあえず、どこまで話を聞いていたかどうか、俺がこっそり様子を見ておきますから。


 案外、取り越し苦労かもしれないし。


 ただ、会議が終わるまで、ティリオンはもう外に出さないほうがいいでしょう」


「あ、ああ、そうだな」


「それから、問題はアテナイだな。


 アテナイ使節団の警護隊長というのがどんな奴なのか、ティリオンにもっとくわしく聞いておかなければ。


 姫、ところで、ティリオンの犯した罪、というのは一体何なのです?」


 アフロディアは、悲しそうにうなだれた。


「わからない。私にも打ち明けてくれないんだ。


 自分でもひどく苦しんでいるようで、これ以上、無理に聞き出すなんてことは、私にはできない」


「くそっ、あいつ、アテナイで何をやらかしてきたんだ?


 しかしあの気の優しい奴が、軍に追われて死刑になるような、そんな大それたことができるとは思えないんだが。


 ともかく、ここは早く城に戻りましょう、姫」


「うん」


 ふたりは手を取り合って走りだした。


 からみ合いもつれ合う、人々の運命の糸。


 その意思と懸命の努力にもかかわらず、皮肉、という名の神が微笑もうとしていた。

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