テバイ使節団 4

 鳥の声のかしましい森の奥に踏み込んだアフロディアは、ごそごそと動いている茂みに向かって叫んだ。


「おーい、帰るぞクラディウス!」


 茂みから赤いバンダナを巻いた黒い頭が、ひょこっと突き出る。


「ええっ、もう帰るんですか? 姫さま」


「ああ、ティルを城に一人で置いておくのは、やっぱり心配だからな」


 アゲシラオス王への追加の薬調合に忙しいティリオンを残して、足りなくなった分の薬草を採りにやって来た、アフロディアとクラディウスだった。


「姫さま、そろそろティリオンのことをクレオンブロトスさまに正直にお話しされたらどうでしょう?」


 アフロディアに寄って来たクラディウスが、言った。


「そうすれば、もうそんなに心配したり、びくびくしないで済むじゃないですか。


 平和会議も行われて、世の中も変わるようですし、クレオンブロトスさまはティルがアテナイ人だと分かっても、それだけで追い出すようなかたじゃないですよ」


「………」


 黙り込むアフロディアに、クラディウスは持ち前の気のいい笑顔を見せた。


「よかったら、俺が一緒に事情を説明してもいいです。


 3人そろってクレオンブロトスさまに怒られましょうよ。


 平和会議にはアテナイだって来るんだし、考えてみれば、打ち明けるのにこんないい機会はない。


 姫さま、俺もいままで、アテナイ人は悪い敵だ、と思ってたけど、ティリオンを見てて考え直しました。


 あいつ、本当にいい奴ですよ。


 ね、打ち明けてしまいましょう。お手伝いしますから」


 突然アフロディアは、顔をくしゃくしゃにしてクラディウスに抱きついた。


 クラディウスの心優しい言葉に、自分が癇癪かんしゃくを起こしたりわがままを言ったりして、素直で気のいい幼なじみにしてきた仕打ちのひとつひとつが、どっと蘇ったのだ。


 アフロディアに抱きつかれ、真っ赤になってどぎまぎするクラディウス。


「あのっ、姫さま、俺、俺……」


「すまぬ! すまぬ! クラディ。


 おまえにはきつく当たってばかりいたのに……」


 クラディウスの胸に顔を埋め、今こそ素直にアフロディアは告白できた。


「いつもおまえは私を助けてくれる。


 いつも笑って許してくれる。


 小さい頃からずっとだ。


 だからつい、甘えてしまう。


 おまえに私は何もしてやれないのに……


 すまぬ、迷惑をかけるばかりだ」


「姫さま……」


 クラディウスは逞しい腕で、アフロディアの体をそっと抱いた。


 しばし目を閉じ唇を噛んで、そのまま燃え立ちそうになる自分の恋心をおさえる。


 やがて……


 ひとりの男として成長しつつある青年は、愛しい少女を大きく包みこむ優しさで言葉をつむいでいった。


「いいんです。


 迷惑だなんて俺は思っていませんよ。


 姫さまにあてにしてもらえるなら、こんな嬉しいことはない。


 姫さまのわがままが聞けなくなったら、かえって張り合いがなくて面白くないですよ」


「クラディ……」


 顔を上げたアフロディアの、涙をにじませた目に映ったのは、幼い頃から変わらぬ頼もしいクラディウスの笑顔。


 森の中、きらめく木もれ日の下。


 見つめあうふたりの、決して取り戻すことの出来ない時間が過ぎる。


 こうして……


 クラディウスは最後まで自分をおさえきり、アフロディアはついに、この優しいスパルタ戦士のはかない想いに気づくことはなかった。


 異国の青年との、命をかけた恋に身を焦がす彼女の前にいたのは、あくまで頼りがいのある幼なじみだったのである。


 わずかなためらいの後、アフロディアは意を決して言った。


「クラディ……


 実は、平和会議にアテナイが来るのがだめなんだ。


 ティルはアテナイに追われてる。


 アテナイ軍に見つかったら、ティリオンは殺されてしまう」


「ええっ?!!」


 驚愕するクラディウス。


 一度せきを切ったアフロディアの言葉は、不安に押されてとめどなくあふれ出ていた。


「ティリオンは、アテナイで大きな罪を犯した、と言うんだ。


 死刑になるほどの事をしてしまったと。


 それでアテナイ軍に追われて、スパルタに逃げ込んだのだと。


 そして平和会議に来るアテナイ使節団の警護隊長というのが、琴の音を聞いただけでティリオンだとわかってしまう、すごい奴だと言うんだ。


 ティリオンは平和会議で、どうしても琴をひかねばならない。


 私が旅の楽士だなどと、嘘をついてしまったから。


 でも琴をひけば、アテナイの警護隊長にばれて、アテナイ軍が捕まえようとする。


 その時はそれを逃れられても、そいつやアテナイがあきらめなければ、またティリオンは狙われる。


 平和になれば、アテナイ人はスパルタに自由にやってくるようになるかもしれないし、そうしたらやっぱり捕まって殺されるかもしれない。


 ああ、私のせいなんだ!


 ティリオンが琴がひけるというので、説得して楽士になりすまさせた私のせい……


 でも、でも!」


 アフロディアは激しく首を振った。


「でも、あの時はしょうがなかったんだ!


 ギリシャ世界の果て、キプロス島生まれの旅の楽士。


 私にはいくらがんばっても、それくらいしか思いつかなかった!」

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