影の王家 4

「正確には、アギス王家が負ける、と言った方がいいかもしれんが」


 オレステスの口調は、暗闇を覗き込むようだった。


「今度のいくさは、いくさに名を借りたアギス王クレオンブロトスの暗殺、といっていいだろう」


「クレオンブロトス王の、暗殺?!」


一枚岩いちまいいわ、と言われていたスパルタの内側が、ついに割れたのだ。


 スパルタのもう一つの王家、エウリュポンは、テバイのエパミノンダスと内通している。


 エウリュポン王アゲシラオスの目的は、アギス王クレオンブロトスを今度の戦で殺すこと。


 だから、クレオンブロトス王の作戦や戦術、行動は全部れ、テバイで大量の罠がしかけられるのだ。


 これでは、いかなスパルタの黄金獅子きんじしでも、勝てん。


 その上、暗殺の確実を期すためか、エウリュポン側は密かにテバイとの内通の事実まで含めて、我々アテナイに直接、情報を流してきている。


 もちろん、エウリュポンの名を表に出している訳ではないが、それとは分かる。


 この情報どおりにクレオンブロトス王が動けば、我々には、戦場のスパルタ陣の、王のいる位置までわかるような状態だ。


 アギス王クレオンブロトスは、テバイに行けば間違いなく殺される。


 そして彼が死ねば、スパルタは滅亡寸前まで追い込まれる、と我々は見ている」


 フレイウスはしばし、言葉がなかった。


 やがて、かすれた声で言う。


「恐ろしい裏切りだ……クレオンブロトス王は気づかないのでしょうか?」


 オレステスは目を閉じた。


 閉じたまま、言う。


「スパルタは、今度のいくさに1万人以上を動員する予定だ」


「1万人以上!! そんなに!」


 この当時、ギリシャで最も人口が多いとされるアテナイ・ポリスでも、市民権を持つ市民の数は、約3万人。


 その家族である女と子供の数が、約9万人。


 在留外国人、奴隷を合わせて、約8万人。


 全部あわせると、20万人前後、といったところだった。


 人口の最も少ないスパルタなどでは、市民権をもつ18歳以上の男子市民の数は、6千人前後にまで落ち込み、その家族を含めても約4万人程度になっていた。


 ただ、スパルタの奴隷の数は多かった。


 ラコニア地方とメッセニア地方の広い領土に、18~25万人とも言われ、この少数市民でこれだけの数の奴隷を支配し、ギリシャを牛耳ぎゅうじっていたスパルタ戦士がいかに強く、また、恐れられていたかがわかる。


 オレステスは目を開き、静かに続けた。


「そうだ。


 奴隷兵や傭兵ようへい、スパルタに同盟するポリス兵がいるにしても、この数からすると、スパルタ市民兵の3分の1から半数近くは出てくるだろう。


 これが全員、敵の罠にかかりにいくのだ。


 エウリュポン王アゲシラオスの裏切りによってな。


 アギス王クレオンブロトスを殺すためなら、エウリュポン王アゲシラオスは、自分の国の市民の半分を道連れにさせることもさないというわけだ。


 これは既に、国家に対する王の裏切りと言っていい。


 おそらくクレオンブロトス王は気づかない。


 彼は、アゲシラオス王が国を滅ぼすほどの背信をする、とは思わないだろう」


 押しつぶされそうな重い沈黙が流れる。


 あまりにゆがんだ心による戦慄の陰謀に、フレイウスは恐怖に満ちた声で呟いた。


「アゲシラオス王は……狂っている」


 こめかみを青くしたオレステスが、頷く。


「ああ、狂っている。だからこそ恐ろしい」


 汗ばんだこぶしをフレイウスは握りしめた。


「では、ではせめてアテナイは中立を! ティリオンさまを救うために!」


 オレステスは苦しげだった。


「フレイウス、実際のところ、今度のいくさは平和会議の場合のように、参加、不参加を、我々内部の都合だけで裁量さいりょうできる範囲を越えているのだ。


 しかしながら、あえてアテナイが中立した場合のことを想定しよう。


 アテナイがこの戦にかかわることなく傍観ぼうかんしても、クレオンブロトス王はテバイで死ぬ。


 クレオンブロトス王亡き後、ティリオンさまが生きておられれば、その身柄は狂ったアゲシラオス王か、テバイの奸物かんぶつエパミノンダスの手に落ちる。


 それから、汚い政治かけひきの道具として徹底的に利用されるか、殺されるか、その両方か。


 またあるいは……」


 わずかに顔をそむける、オレステス。


「あのかたの美しい容姿がわざわいして、もっと過酷な屈辱的運命に……さらされる。


 暴行され、なぐさみものに……


 特にテバイ側の手に落ちれば、その可能性が高い……


 その理由は、おまえならわかるはずだ。


 我々はその方が、あのかたにとっての不幸と思う」


「そんな……!!」


 この恐ろしい指摘してきに、フレイウスはしばらく息もできなかった。


 あらがうように無意識に首を振る。


 数歩、後ろによろめく。


「そんな、そんな……ティリオンさまが……そんな! そんな!!」


 声に苦痛をにじませながらも、オレステスはきっぱりと言った。


「そして我々氏族組織は、狂った王や薄汚い奸物かんぶつの手にティリオンさまが落ちたとしても、ティリオンさまを救うためだけに、民主制アテナイを裏切るようなやみ取り引きをするつもりはない。


 氏族組織はアテナイを裏切ることは、しない」


「そんな、テオドリアスさまっ、父上っ!!」

 

 フレイウスの叫びは、魂の引きちぎられる悲鳴だった。


「それでは、ティリオンさまをお見捨てになるのですか!!!!」

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