第十九章 裏切り

裏切り 1

 しかしながら、オレステスとテオドリアスの予測や洞察は、みせしめに戦場でティリオンが処刑される、という部分では当たらなかった。


 ティリオンの素性すじょうを知り犯した罪を知ってもなお、彼を愛するアフロディア姫。


 それを見て取って、妹を気遣う兄としてのクレオンブロトス王。


 加えて、アフロディア姫を密かに想い、ティリオンに友情を感じているクラディウス、というアテナイ側としては計算外の要素があってしまったからである。


 一ヶ月以上もの長い監禁からやっと部屋の外へ出してもらえたアフロディアは、王宮中を捜し回って、クラディウスの姿をなんとか発見した。


「クラディ、クラディウスっ!」


 数人の兵士たちと話していたクラディウスが、アフロディアを見、ぎくりと青ざめる。


 灰色の目が落ちつきなくさまよう。


「クラディ、クラディっ、ちょっと話がある。来てくれ!」


 あからさまに嫌がっている様子をみせる幼なじみを、アフロディアは強引に物陰に引っ張り込んだ。


「どうもお久しぶりです。姫」


 おどおどしながら挨拶する、クラディウス。


 アフロディアは挨拶など無視して、性急に話し始めた。


「聞いたんだ。


 おまえが部隊を指揮して、追放されるティリオンを送っていくんだってな?」


 クラディウスは視線を逸らした。


 細かく震えるこぶしを見られまいと、後ろへ隠す。


 恋人を心配してずいぶんと痩せた少女は、細い腕で幼なじみにすがりついた。


「そうなんだろ? クラディウス。


 おまえが国境まで送っていくんだろ?」


「……はい」


「いつ、いつだ? いつ送っていくんだ、ティリオンを?」


「……明日です」


 アフロディアの口がぽかんと開いた。


 泣き続けて赤い琥珀こはくの目が、虚ろになった。


「明日、明日……そんなに早く……」


 クラディウスはあとじさった。


「姫さま、俺……いや、私は仕事がありますので、これで失礼します」


「待て、待て、まって!」


 去ろうとするクラディウスの腕を、あわててつかむアフロディア。


「じゃあ、じゃあこれ、これをおまえからティリオンに渡してくれ、クラディウス」


 アフロディアがクラディウスの手に握らせたのは、大事にしていた銀の短剣だった。


 柄元つかもとに大粒のエメラルドと、それを囲むようにいくつかの宝石の嵌まった、美しい銀の短剣。


「姫……」


「私には、これくらいしかないんだ。


 でもこれなら、旅で持ち歩くにもかさばらないし、護身用に使える。


 売ればかなりのかねにもなる。


 ティリオンに渡してやってくれ。な、頼む」


 クラディウスの手の中で、澄んだ輝きを放つエメラルドは、薄幸はっこうな異国の青年の瞳そのままだった。


 あふれそうになった涙をこらえて、クラディウスは歯をくいしばった。


「わかりました。姫」


「ありがとう、クラディウス、すまない」


 アフロディアは、最後の最後まで迷惑をかけてしまう幼なじみを心からの感謝をこめて見た。


 そして不意に、直感的に口走った。


「クラディウス、おまえ、まさかティリオンを殺したりしないな?」


 クラディウスは心臓が喉から飛び出しそうになった。


 大声をあげて逃げだしたくなる衝動を、かろうじてこらえる。


 しゃがれた声。


「そんな……まさか……」


「そ、そうだな……おまえがまさか、ティリオンを殺せるはずがないな」


「……ええ」


「そうだな。そうだ……。


 おまえが送っていくのなら、安心なんだ。


 おまえがティリオンを殺すものか……あんなに仲が良かったのに。


 すまない、変なことを言って」


「いえ……」


 アフロディアがほっと息をつく。


 それには、安堵と同時に、恋人と引き裂かれる悲しみが混じり合っていた。


 クラディウスは、歪む表情を見られるのを恐れて頭を下げた。


「それでは、姫、私はこれで」


「ああ、すまなかった、ひきとめて」


 クラディウスは足早にアフロディアから離れた。


 自分の背中をじっと見つめる視線を、痛いほど感じた。


 廊下の角を曲がったところで、はっとして立ち止まる。


 クラディウスの兄カーギルが、腕を組み、壁にもたれて立っていた。


「うまくいったようだな」


 兄の言葉にも視線を逸らす、クラディウス。


 右手は、渡された銀の短剣をぎゅっと強く握りしめている。


 カーギルはもたれていた壁から離れ、鋭い目で弟を見た。


「わかっているだろうな。アテナイはテバイ側についた。


 スパルタ市外に出たら、すぐ奴を殺せ」


「………」


「本来なら、みせしめに戦場で八つ裂きにされ、衆目しゅうもくの中で苦しんで死なねばならないところだ。


 それを、姫さまのお気持ちと、あいつの哀れな過去の身の上をも考えて、追放という形でいったん外に出してから、一息ひといきらくにしてやろうというんだ。


 お優しいクレオンブロトスさまの慈悲だ。わかったな」


「……はい」


「おまえにとっては名誉挽回めいよばんかいのいい機会でもある。


 アテナイ人なんぞにうまうまと騙されて、姫さまを危険にさらしたことを反省しているなら、これくらいの仕事、ちゃんとやってのけてみせろ」


「………」


「ああそれから、首を持ち帰るのを忘れるな。


 塩漬けにしてアルクメオン家に送らねばならん」


 カーギルは、うつむいたままの弟にそう言い捨てて、去った。


 兄の姿が見えなくなっても、クラディウスはじっと立ちつくしたままだった。

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