クレオンブロトス王 7
兄王の様子に自信を得たアフロディアは、計画の次の段階に入ろうとしていた。
「それで、それでな兄上。
こんなに素晴らしい楽士だから、ティルを宮廷のおかかえ楽士にしたらどうか、と思うのだ。
兄上も賛成して下さるであろう?」
「それは……」
とたんに、クレオンブロトスが難しい顔になったのを、熱をこめて説得する。
「兄上! 兄上はよく、これからはスパルタも、外界から新しい才能を持った人材をどんどん取り入れる必要がある、と言っておられましたな」
「え? ああ、それは、そうだが」
「それでは、これはとてもいい機会ですぞ!
なにせ、世界一の才能を持った楽士なのですからな」
「うーむ。しかし、急な話だな」
「急でも何でも、兄上のお気に入れば、それで良いではありませんか。
私も、もちろん気に入っておりますし。
それにティルをおかかえにすれば、こんな美しい音色を、毎日ずっと聴けるのですよ」
「毎日ずっと? まさかな……
こら! 何だその行儀は」
熱心さのあまり、とうとう床に四つんばいになった妹をたしなめる、クレオンブロトス王。
アフロディアは膝をそろえて座り直し、両手を合わせて頭を下げた。
「一生のお願いっ、兄上さま!」
「ふーっ、おまえの一生は、一体いくつあるのやら」
顎に左手をあてて考え込みながら、クレオンブロトスは右手を高杯にのばした。
おとなしそうに顔をうつむき加減にして、じっと動かない美貌の楽士を、眺める。
(楽の音は確かに素晴らしいし
しかし、美形すぎる。
こんな綺麗な男は見た事がない。
その点で、いかにもやっかい事を引き寄せそうだ。
自分でもそれを承知していて、髪で隠そうとしているな。
先ほどの受け答えといい、かなり頭の良さそうな奴だ。
これはひょっとして、フォイビダスの罠か?
だが、あいつがこれほど、
高杯にのばしたクレオンブロトスの手が、ふと、止まった。
「楽士どの、お顔をもっとよく拝見したい。
ぴく、とかすかにティリオンの肩が動く。
銀髪の前髪の落とす影が、かえって濃くなる。
クレオンブロトスは高杯をとるのをやめ、手を机に下ろした。
「どうされた? お顔をもっとよく拝見したい、と言っておるのだ。
兄の声に含まれた鋭さに、はっとして、アフロディアがティリオンを見る。
「楽士どの、
三たび促されて、ついに観念し、ティリオンは静かに顔を上げた。
美しいエメラルドの瞳と、王者の琥珀の瞳がぶつかり合う。
クレオンブロトスの眉が何かを思い出すように、軽くひそめられた。
(この目……この緑色の目、どこかで見たような?)
その時だった。
クラディウスの手から滑り落ちた高杯が、にぶい音をたてて床の絨毯の上に転がった。
驚愕の表情で口と喉を押さえ、体をくの字に曲げるクラディウス。
のめるように、よろよろと数歩歩き、耐えられずくず折れる。
クレオンブロトスとアフロディアの驚きの叫び。
「どうしたっ、クラディウス?!」
「クラディっ!!」
行動をおこしたのは、ティリオンが一番速かった。
キタラを捨て、身をよじってもがき苦しみ始めたクラディウスに駆け寄り、うつ伏せの体を仰向けに転がし、頭を横に向けさせる。
クラディウスが目を見開き、両手で喉を押さえているのを確認すると、苦しむ体をまたいで、左手を患者の口に突っ込んだ。
苦悶するクラディウスの歯が、口に入れられたティリオンの手を、激しく噛む。
それでもかまわず、指を喉に押し込み、右手でクラディウスの頭をつかんで、横にねじるように半身を起こさせた。
げえっ!! クラディウスの口から、茶色い液体が大量に吐き出された。
かたい黒髪をつかんだティリオンが、乱暴とも見えるほど荒々しくクラディウスの頭を振る。
再び口からあふれだす、茶色い液体。
何度か毒を吐かせ、クラディウスの口から何も出てこなくなってから、ティリオンはやっと左手を引き抜いた。
そばまで来ていたクレオンブロトスに手助けしてもらい、ぐったりしたクラディウスの体を、
まぶたを裏返して患者の容体を
「どうだ、助かるか?」
「ええ、毒を吐くのが早かったので、大丈夫です。
すぐに気がつくでしょう」
「そうか、よかった……」
大きく安堵の息をつく、クレオンブロトス。
ティリオンは振り向いて、口に手をあてたまま立ちすくんでいるふたりの女に言った。
「すみませんが、飲み水か、できれば山羊か牛の乳を
それと、体を拭くためのきれいな布を5、6枚とお湯。
このかたの着替えもお願いします」
アフロディアがひとつ頷き、風のように走り去る。
そのあとをあわてて
ティリオンは自らの服の
と、ティリオンの左手が、温かい大きな両手で、そっと持ち上げられた。
クレオンブロトス王は、両手の上にのせたティリオンの傷ついた左手を、じっと見つめていた。
深く歯形が
優しい声。
「我が臣下の命を助けてもらい、厚く礼を言うぞ、楽士どの。
楽士どのは、医術の心得がおありかな?」
わずかなためらい。
そして、答え。
「はい、いささか」
「そのようだな。見事な
さきほどの楽の音と同様にな」
黙って頭を下げる、ティリオン。
クレオンブロトスは、微笑んだ。
「そう怖がることはない。
そうか、ひょっとして旅の空でそなたは、スパルタについて少々、
できればその誤解を解きたいものだ。
ともかくこの手では、しばらく琴は弾けまい。
完全に傷が
スパルタ王クレオンブロトス・アギスは、そなたを心から歓迎しよう」
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