美しき逃亡者 3 *
外のベンチで診察待ちをしていて、争う声と、突然の家の揺れに何事かと驚いている人々にも、叫ぶ。
「早く離れて! 家から離れるんです!」
わらわらと、患者たちが診療所の回りから避難したのと、
ギギギギイィ――ッ、ドシャ―――ッ!!
哀れな最後の音を立て、ぼろ家の診療所が、ぐしゃりぺしゃん! と、畳まれた箱のごとく、片側に崩れ潰れたのはほとんど同時だった。
もうもうと土煙のあがる
しばしのち、今度は下敷きになった娘たちの救出に向かうべく、 抱いていた患者をティリオンが降ろしていると、廃材をかき分けて、真っ黒になった娘たちが次々と姿を現した。
薄っぺらく、朽ちる寸前だった木材が幸いして、どうやら皆、怪我もなく無事らしい。
ほっ、と安堵の息をつくティリオン。
そこに、つつつつつ、と真っ黒の娘がひとり、近づいてきた。
「あの、先生、これ、どうぞ」
なおもしなを作り、娘が嬉しそうに手渡したものは。
包帯だった。
包帯を受け取って、がっくりと肩を落とすティリオン。
まわりの患者たちは、青年医師のそんな様子に、深く同情した。
崩壊した診療所に悲しい視線を向ける、青年医師。
患者の村人たちが寄ってきて、慰めと励ましの言葉をかける。
しかし、彼の悲しいまなざしの理由は、診療所が潰れてしまったため、だけではなかった。
(これは、いよいよここを去る潮時なのかもしれない。
これ以上目立ったり、騒ぎを起こすのはまずい)
彼は追われる身だった。
今から半年ほど前、彼は自分の父である、
過酷な旅を続けて、なんとかスパルタ領内まで逃げのびてきた。
アテナイとスパルタは、犬猿の仲。
ティリオンがスパルタの領地内に逃げ込んで以来、アテナイ側の追っ手は動きがとれないでいるようだった。
スパルタ市の目と鼻の先にある、この奴隷村までやって来て、2週間。
野宿ではなく、雨風をしのげる屋内で寝泊りでき、人間らしいまともな食べ物を口にできた。
緊張の連続だった精神を休めることができ、何でもない物影におびえることもなくなってきた。
励ましの声をかけてくる患者たちに、表面上は微笑んで頷きながら、彼は頭の中で別の事を考えていた。
(ここはスパルタ領内。
アテナイ側には、そう簡単に足を踏み入れられる場所ではない。
だが油断は禁物だ。
フレイウスは勘がよくて頭もいい、恐ろしい奴だからな。
たとえスパルタ領内でも、どんな手段を思いついて、いつやって来るか知れない)
アテナイから差し向けられた追っ手、フレイウスという男の優秀さを、ティリオンは知りすぎるほどに知っていた。
かつて彼の武術の師であり、護衛であり、誰より信頼し、最も親密な関係にあったその男フレイウスが、彼のことを知りつくしているのと同様に。
(いくらスパルタに逃げ込んだとて、アテナイもフレイウスも、私を追うのを簡単にあきらめはしない。
いや……これくらいでは決してあきらめない。
私を処刑するまでは、奴らはあきらめない)
ティリオンは、痩せてぶかぶかになってしまった白い長衣の前を寒そうにかき合わせた。
明日にもこの村を出発しよう、と決心した緑の瞳には、敵を警戒する獣のような光が宿っていた。
――――――――――――――――*
人物紹介(学問と芸術の盛んなアテナイ国の人たち)
● ティリオン(18歳)……自分の父親の
複雑な生い立ち、背景を持っている。
【※アテナイ・ストラデゴスとは、アテナイの将軍長、という意味の、役職名です】
● フレイウス(25歳)……アテナイ軍の将校で、ティリオンを追っている。
かつてティリオンの武術の師であり、護衛であり、最も親密な関係にあった。
『アテナイの氷の剣士』と異名をとる、剣の達人。
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