美しき逃亡者 4

 背は低めだが、がっしりとした体つきで四角い顔の、奴隷村の村長。


 彼は、食堂の大きなテーブルをはさんで、向かい側に座るティリオンを説得していた。


「そりゃあ、色々な経験を積んで医術を勉強したい、というお気持ちは、大変ご立派だと思いますよ。


 でもこのご時勢だ。大きな戦が始まる、って噂もありますしね。


 ティリオン先生ほどのお人なら、もうそんなにあちこち、危険な旅をしてまで、勉強なさらなくてもいいんじゃありませんか?」


 診療所、兼、住居のぼろ家を、熱狂した村の娘たちに潰されてしまったため、急遽きゅうきょ、村長の家に泊まることになった青年医師ティリオン。


 その彼が急に、明日の朝にも村を出て、旅立ちたい旨を告げたためである。


 困った顔をしているティリオンに、村長は熱心に続けた。


「昼間の一件はお忘れくださって、どうか、ここに腰を落ちつけてくださいよ。


 村の皆も、先生に新しい診療所を建ててさしあげるんだ、と張り切っておりますし。


 もちろん、あの馬鹿な娘たちには、二度とあんなことをしでかさないよう、きっちり言って聞かせますが……」


 ここで村長は、テーブルに身を乗り出した。


「どうです、あの中に気に入った娘はいませんか?


 うちの村の娘たちは、美人が多いんで評判なんですよ。


 そりゃまあ、先生の美貌には到底かないませんがね、ははははは。


 どの娘も、先生となら二つ返事ですし」


 どうやら、ティリオンを誰かとめあわせてここにとどめよう、という作戦らしかった。


 村長の単純な考えを見抜いていても、真面目なティリオンは思わず、頬が赤くなるのを感じた。


 目を伏せて、恥ずかしそうに首を振る。


「いえ、私は、まだそんな事は全く考えていませんので……」


 村長は、ニターッと笑った。


 細長いテーブルの上座かみざに座っている、白い髭の長老。


 さらにその後ろで、暖炉にかけたシチュー鍋をかきまわしている、かみさんの方を横目で伺う。


 それから、声を低めた。


「先生は確か、18歳でいらっしゃる?」


「え、はい」


「じゃあ、あっちのほうの……女の経験は、もうお済みで?」


「!!」


 一気に全身赤くなったティリオンに、にやにや笑いかける村長。


「いやいや、これは失礼でしたな。


 先生ほどのいい男なら、もうとっくに色々と、あれこれと、ヘへへへッ」


 いつもは、村人の人望厚い実直じっちょくな村長といえど、こういう話題も嫌いではないらしい。


 鼻の下が伸びて、下品な笑いになっていた。


「ねえ先生、昼間の一件もそうでしたが、つくづく女ってのは怖いもんですよねぇ。


 でも女がいなきゃ、楽しみもない。


 女とつきあうのが、あの時、だけだったら、世の中、なんでも丸くおさまると思いませんか?


 わたしゃ、最初の時からそう思いましたよ。ひひひひっ」


 顔を突き出し、寄せてきて、共犯者の口調でささやく。


「先生の最初の首尾しゅびはいかがでした?


 相手はどんな女でした?


 しっぽり、うまいこといきましたか?」


 怒鳴り声が響いてきた。


「あんたぁっ、家じゃそういう話はやめとくれ、っていつも言ってるだろう!


 立派な先生と、スケベェな自分をおんなじように考えてたら、大間違いなんだからねっ!」


 地獄耳のかみさんの助け船に、ティリオンは、ほっと息をついた。


 村長は、しゅん、となった。


 太ったかみさんはのしのし歩いて、ほかほか湯気の上がる、じゃがいもと豆のシチューの皿を、ティリオンの前に置いた。


 にこにこ笑って言う。


「すみませんねえ、先生。


 このひとったら、下らない事ばっかり喋るのが大好きなんですよ。


 気にしないでくださいねぇ」


 加えてかみさんは、川魚の焼き物、野草のサラダ、黒パンとヤギのバター、という、奴隷村ではとびきりの御馳走ごちそうを並べた。


「遠慮しないで、どんどん食べてくださいよ。


 あたしが、腕によりをかけて作ったんですからね。


 さあ、さめないうちに」


 親切なかみさんの言葉に、村長の父親である、テーブルの上座かみざの長老も、白く長いひげの向こうから、もぐもぐという同意らしい呟きをもらした。


 礼儀正しいティリオンは、かみさんに丁寧に礼を言った。


「どうもありがとうございます。


 こんなに気をつかっていただいて」


 長老と村長にも、きちんと礼をいった。


「ご親切、ありがとうございます。


 それでは遠慮なく、いただきます」


 そして、料理を口にした。


 温かいシチューが喉を通り、厳しい旅で痩せた腹に入っていくと、ティリオンは心からの賛辞をかみさんに送った。


「これはおいしい!


 こんなおいしい物を食べたのは、本当に久しぶりです」


 かみさんは、嬉しそうに頷いた。


「そうかい?


 それなら、たんと食べてくださいよ。


 おかわりも、たっぷりありますからね」


 えへん、と咳払いをひとつしてから、村長も言った。


「先生、ひとつ、この魚も食べてみてくださいよ。


 なかなか立派なやつでしょう。


 こいつは、今朝わしが釣ってきたんです。


 わしは、釣りにかけては自信があるんですよ。


 この間も、エウロタスの川で……」


 人の好いお喋り好きの村長は、機嫌良く釣りの自慢話を始めた。


 久々の、おいしい料理。


 あたたかい人々の、優しい言葉。


 食事が進むにつれ、ティリオンはくつろぎ、面白い話に声をたてて笑った。


 他愛ない問いかけに、頷いて応えた。


 ほのぼのとしたものが、全身を心地よく包んでいく。


 (ああ、村長の勧めてくれるまま、本当にここにいようかな。


 ここはスパルタ領内だし、スパルタ市にも近いし。


 ひょっとしたらアテナイも、さすがにここまでは追ってこれないかもしれない)


 昼間の疲れもてつだって、ぼんやりとしてきた頭で、そんなふうにまで思いはじめていたティリオンの耳に、突然、荒々しい声が割って入った。


「なんでこいつがここにいるんだよ!」

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