第三章 美しき逃亡者

美しき逃亡者 1

 スパルタ市近くの、奴隷村。


 ティリオンは、慢性リウマチの女性の治療をしていた。


 彼女は3人の子供をもつ、夫を亡くした母親だった。


 10歳の長男が心配そうに、診察用の粗末な寝台のそばで見守っている。


 医師ティリオンは、形のいい長い指で、患者の右足を触診しマッサージした。


「どうです、ここはまだ、痛みますか?」


 ティリオンが優しい声で尋ねる。


 すると患者が答えるより先に、背後から一斉に、ほーっというため息がおこる。


 ティリオンの後ろには、頼まれもしないのに、『お手伝い』と称して、10数人の村の若い娘たちがひしめきあっていた。


 彼女たちは、診察をする彼の一挙一動をのぞき込んでいるのだ。


 じりじりと近寄ってきて、手元てもとを暗くする彼女らの影に、ティリオンは振り向かずに忍耐の声で言った。


「すみません、暗くなるのでもっと下がってください」


「はぁぃ、ティリオンせんせぇ――」


 甘い声の合唱はあるが、たとえ一歩でも彼女らが下がったかどうかは、怪しいものである。


 ティリオンの小さな診療所において、彼女らは招かれざる客だった。


 が、この村の客、という立場の彼は、ひたすら我慢するしかなかった。


 彼は後ろを出来るだけ気にしないようにして、診察を続けた。


「前回よりは、かなり腫れがひいてきたようですね」


「はい、この前、先生にいただいたお薬を飲みましてから、ずいぶんと楽になりました。これで……」


 リウマチの母親は、傍らの10歳の長男にうるんだ目を向けた。


「この子にも、少しは苦労をかけずにすみます」


 少年は澄んだ瞳で、ひたとティリオンを見つめ、礼を言った。


「ティリオン先生、本当にありがとうございます。


 母ちゃんがこんなに具合よくなったのは、この病気になってから初めてです。


 みんなティリオン先生のおかげです」


 ティリオンはいたいけな少年の頭を、そっと撫でた。


「そう、それは良かった。


 でも、これから段々寒くなる。お母さんの病気は、冷えるのが一番いけないんだ。


 きみも大変だろうけど、これからもお母さんを手伝って、大事にしてあげてね」


 少年がこくん、と頷き、感謝の気持ちをいっぱいに笑みする。


 ティリオンも、その美貌の顔をほころばせ、温かい笑顔を返した。


 微笑む青年医師のうるわしい横顔に、キャ――――ッ! と、背後の娘たちから黄色い歓声が上がる。


 リウマチの母親までが、頬を赤らめた。


 2週間程前、ふらりとここ、スパルタの奴隷村に現れた、ティリオンという素性すじょうの知れない青年医師。


 ほっそりと背が高いこの青年は、驚くほどたぐいまれな美貌の持ち主だった。


 男性にしてはやや甘すぎ、優しすぎるかもしれない、白く精緻に刻まれた花のかんばせ


 優雅に長い睫毛にふちどられた、澄んだエメラルド色の瞳。


 背のなかほどでゆるく束ねられた、さらさらの透けるような長い銀髪。


 後は、質素な白い長衣を着た背中に、白く輝く翼のついていないのが不思議なくらいだった。


 「何者か? どこから来たのだ?」と、あふれる好奇心から、また警戒心から、村の誰もが尋ねた。


 「医術を勉強して、各地を旅して回っているのだ」と美しい青年は、ただそれだけを答えた。


 この美貌の青年医師が、村の傷病人しょうびょうにんの診察と治療を申し出たとき、不審と疑惑の目でみながらも、村人たちは彼を受け入れた。


 小作人の奴隷村のほとんどがそうであるように、ここも例外にもれず、医者がいなかったのだ。


 間もなく、腕のいい若い医師は、村人たちにとって何にもまさる恩恵おんけいとなった。


 そして青年医師の、優しく親切で穏やかな人柄が、村人の感謝と尊敬を集めるようになるのに、数日もかからなかった。


 そんな青年を、村の若い娘たちが放っておくはずがなかった。


 彼女らは、青年医師の迷惑げな顔もかえりみず、隙あらば自分の仕事を放り出し、古い木の納屋なやを手直しして彼が開いた診療所に、毎日のように押しかけているのだった。

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