クレオンブロトス王 9

 杯を空にしたクレオンブロトスは、酒と冷や汗の流れ落ちるフォイビダスの顔に自分の顔を寄せた。


「言ってみろ。酒は、わがスパルタでは?」


 ぱくぱくと口を開閉させてから、やっと音になるフォイビダスの声。


「きっ、きききききき、禁止です」


「それを破れば?」


「むっ、むち、むち、むち、むちうち刑」


「ようし、良くできた。


 アゲシラオス王も、おいごどのの教育を、徹底的におこたったという訳ではないようだな」


 クレオンブロトスは片手で、左、右、と順番に、固まっているフォィビダスの手を中央に動かした。


 空になった杯をその両手の間に差し込み、押さえて、しっかり握らせた。


「私から、良くできた褒美ほうびをやろうぞ、フォイビダス」


 今度は、かねてより自らがもって来た水差しを、傾ける。


 水差しからフォィビダスの杯に、透明の液体が注がれてゆく。


 飛び出さんばかりのフォイビダスの目が、それを追う。


 杯は満たされた。


「さあ飲め。


 酒よりもずっとうまいぞ。


 きさまが今日、わざわざ私に飲ませてくれようとしたのと、同じものだからな」


 ひいっ! という悲鳴をあげて、激しく頬を引きつらせるフォイビダス。


 液体の満たされた杯を投げ捨てようとするが、硬直した指がはりついて離れない。


 スパルタの黄金獅子きんじしクレオンブロトス王が、凄まじく咆哮ほうこうした。


「どうした、飲めっ!!


 きさまは、王の杯が受けられんというのかっ!!!!」


 どっ、と滝のように、フォイビダスの目に涙があふれ出した。


 彼は子供のように、おんおん泣きだした。


「うわああん、あああん、おあーん、ごめんなさい、ごめんなさい、お許しくださいいいっ!」


 恐ろしい黄金獅子きんじしの急襲に、肝が完全にへしゃげていた。


 野心と欲は大きいが、それに見合う度胸のない男は、何をとりつくろう事も出来ず、ぺこぺこしながら必死で詫びの言葉を繰り返した。


「あああん、ごめんなさい、もうしません。


 もうしません。おっお、おーん、おーん、ごめんなさい。


 どうか、どうか、おゆるしください、おーんおんおんおん……」


 ごつい中年男の哀れな姿に、クレオンブロトスはあきれ、舌打ちした。


 黄金の髪をかきあげて、呟く。


「なんと情けない。


 スパルタ人も軟弱になってしまったものだ。


 これは、他の兵どもにも、心身ともに本格的な鍛えなおしが必要かどうか、検討せねばならんな」


 うつむいて泣きじゃくるフォイビダスの髪をつかみ、ぐいとおもてをあげさせる。


「ええい、泣くなっ、馬鹿者が! こっちが恥ずかしくなるわっ」


「ひっ、ひえっ、えっえっ、ごめんなさい、おゆるしくっ、ください……」


「答えろ!


 ピレウス港奇襲作戦で、アテナイへの密告や、味方軍船に火をつけたのはスポドリアスだな。


 そしてそれは、フォイビダス、きさまがあらかじめ命じておいて、やらせたことだな?」


「ひっく、おっ、おっ、おえっ、おっおーんおーんおーんおーん」


「私の質問に答えろっ!


 ピレウスでの、一連の裏切り行為の犯人は、スポドリアスで、それはおまえが命じてやらせたことだなっ?!」


「ひいいっ! そうです、そうです、もうしません。


 もうしませんから……ごめんなさい……どうかお許し、くっくだっさい」


「カーギルは、裏切り行為などしていない。


 無罪と認めるな?!」


「うっ、ひっく、はっ、はい」


「こっちを見て答えろっ!」


「ひっ! はい、はいっ、そうですっ。


 ひっく……うえっえっえっえっえ……」


 クレオンブロトスはフォイビダスの髪を離した。


 汚いものを払うかのように、ぱっぱっと指を振る。


「真相をおおやけにする裁判の申請は、今回だけは取り下げてやる。


 裏切り者スポドリアスの処分は、きさまに任せる。


 すみやかに処理しろ。


 いくらアゲシラオス王のおいごどのでも、今後、また同じようなことをやったら、殺す。


 わかったな」


 喉ぼとけを上下させて何度か頷くフォイビダスの前で、クレオンブロトスは水差しに直接、口をつけた。


 そして、ただの水である液体を、ごくごくと飲んだ。


 捨てられた水差しが転がり、クレオンブロトス王の足音が遠ざかっていく。


 放心状態のフォイビダスの足元には、水たまりができていた。


 それには、酒と涙と汗と尿が混ざっていた。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る