幕の内側 4

 アテナイの三人は、噂の楽士の演奏を昨日も聴いていなかった。


 聴けなかったのである。


 例のスパルタ男たちが、昼食後にも夕食後にもやって来て、連れだされたフレイウスは剣の稽古けいこの相手をさせられたからだ。


 ギルフィが嬉しそうに言った。


「さあ、今日こそ絶対に聴くぞ!


 楽しみだなあ。あれだけ皆を喜ばせるとは、どんな楽の音なんでしょうね、フレイウスさま」


「でも、どうして姿をみせないんでしょうか? 男か女かも教えないなんて」


 と、アルヴィ。


 フレイウスは、楽士を隠す黒い幕をじっと見つめていた。


 (まさか、な。


 確かにティリオンさまは、琴の名手だ。


 あのかたの琴ならば、これぐらいの賛辞は当然だ。


 だが、いかなティリオンさまでも、わざわざスパルタ市内にまで入り込むとは思えない。


 もし私があのかたの立場でも、そこまではしない。危険すぎる。


 ましてやスパルタ王宮に入って、宮廷楽士になりすますなど、ほぼ不可能だ)


 あおの目が、衛兵に守られた黒い幕を見透かすように細められる。


 (しかし、どうも気になる。


 キプロス島出身の楽士、という話だが……)


「あっ、フレイウスさま、またあいつらが来ますよ!」


 アルヴィが声を上げた。


 うんざりした顔で、ギルフィが言う。


「なんてしつこい奴らだ、またか。


 今日こそ、楽を聴こうとたのしみにしてたのに……」


 またしても、ぞろぞろとやってきたスパルタ男たちは、テーブルをはさんでフレイウスの前に立った。


 皆で一斉にぺこりと頭を下げてから、言う。


「フレイウス先生、お手数ですが今日もご教授、お願いできませんか?」


 態度と言葉が丁寧になったのは、フレイウスの恐るべき剣の実力を、彼らが思い知らされたためである。


「お願いします、先生!」


「我々にもっと、フレイウス先生の剣を教えてください!」


「先生みたいに、剣がうまくなりたいです!」


 彼らは、クラディウスに命ぜられるまでもなく熱心になっていた。


 乱暴ではあるが純朴なスパルタ人は、自分の武術の技を磨くことには常に関心があり、素直に一生懸命になれたのである。


 が、フレイウスはきっぱり首を振った。


「悪いが、今日は遠慮してもらう。明日にしてくれ」


「そんなこと言わずに、先生!」


「先生に、一日でも、一回でも、教わる機会を逃したくないんです」


「どうか教えてください、先生、お願いします!」


 ぺこぺこ頭を下げるスパルタ男たちを、食堂の使節たちが不気味そうに見る。


 スパルタ人といえば、ギリシア一の戦闘のプロ。


 ひとりで敵の兵10人以上を倒すといわれる、強者つわものぞろいである。


 その強者つわものぞろいの、筋肉の山のようなごついスパルタ人たちが、長身で筋肉質ではあるものの、彼らに比べれは華奢きゃしゃにさえ見えるアテナイ人に、剣の教授を頭を下げて頼みこんでいるさまは、どうにも異様な雰囲気だった。


 その様子をクラディウスは、黒い幕の糸のような隙間すきまから苛々いらいらして見ていた。


 (何をやっているんだ、あいつらは。


 さっさと奴を連れていけっ)


 さらにそのクラディウスを、幕の内側で不安そうに見ているのは、もちろん、椅子に座って琴を持ったティリオンと、そばに寄り添っているアフロディアである。


 ティリオンは、たった一枚の幕で隔てられたフレイウスの鋭い目が、すでに自分の姿を見通しているような気がして、ぞくりと体を震わせた。


 (フレイウスは恐ろしく勘がいい。


 アテナイで一緒にいた頃は、私がどこにいてもすぐに見つけてきた。


 私がアテナイから逃げてからは、さすがに勘だけでは見つける事ができなくなっているようだが、それでも、私がここにいることを薄々気づいているかもしれない。


 奴と正面きって戦うはめになったら、私に全く勝ち目はない。


 今度こそ、だめかもしれない)


 ティリオンの表情にあきらめの色を見て取ったアフロディアが、焦った小声で言う。


「クラディ、どうした? まだか?」


 幕の外を見たまま、クラディウスが手のひらをむけてアフロディアを制する。


 クラディウスの赤いバンダナにも汗がにじんでいる。


 いくら頼まれても、腕組みをした今日のフレイウスは、がんとして動きそうにない。


 (まだ会議は2日目なのに、もう、あの手を使うしかないのか?!)


 決心したクラディウスは、振り向き、寄り添うふたりに小さく笑った。


 幕の隙間すきまから、するり、と食堂へ出た。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る