最後の王命 4

「喉が、乾いたな」


 ぽつりと言った姫ぎみの初めての声に、おともの士官はほっとした。


 いままでいくらご機嫌を取っても、アフロディア姫は黙りこくったまま一言ひとことも口をきいてくれなかったからだ。


 クラディウスがアフロディア姫のおともを解任され、代わりとして任命された彼は、魂の抜けた人形のような姫ぎみを相手に悪戦苦闘あくせんくとうしていた。


「はい、はい! すぐに、姫さま」


 二つ返事というやつで、自分の腰に手をやるが、暑さ厳しい折のいくさで、彼の水筒に水の手応えはなかった。


「誰か、水を持っていないか?!」


 そう叫んで、馬上から進軍中の兵たちを見回す。


 けれども、首を振ったり肩をすくめたりで、よい応答はない。


 舌打ちした彼は、近くにいたひとりの奴隷兵を指さした。


「おいっ、そこのおまえ!」


 指さされ、ぼろっちいかぶとを深くかぶったその兵は、びくりとして、さらに深くかぶとを引き下げた。


 おともの士官は命じた。


「そこの兵、さっきの川で水を汲んでこい」


「………」


「おいっ、おまえっ、返事をせんか!」


 小さくくぐもった声。


「……私ですか?」


「そうだ、おまえだ。もっとしゃきっと返事をせんか!


 さっき右手に見えていた小川まで走っていって、水を汲んでこい」


「……はっ」


「早く行け」


「……はっ」


「早くいかんか。姫さまがお待ちだ」


「……はっ」


 返事をしながら一向に行こうとしない奴隷兵に、ついに怒声が飛ぶ。


「きさまっ、さっさと行けっ!!」


 奴隷兵は最初はしぶしぶ、しかしいったん走りだすと驚くほどの速さで駆け去った。


 目を丸くするおともの士官。


「何てすばしこい奴だ。どこの村で徴用ちょうようした奴だっけか?」


 首をひねり、思い出せなかった士官はすぐあきらめた。


 姫ぎみのそばに戻り、ご機嫌取りの口調で言う。


「姫さま、もうすぐにクレオンブロトスさまとの合流地点です。


 兄王さまが、きっと首を長くしてお待ちですよ」


 アフロディアの兄王の待つはずの林は、目前だった。



                ◆◆◆



 水汲みを命ぜられた奴隷兵は全力で走り、やがて小川に到達した。


 (急がなければ! どうやら戦局はかなり劣勢のようだ。


 私のいない間に、姫さまに何があるかわからない)


 素早く木の水筒を澄んだ水の中につける。


 ごぼこぼと泡が上がる。


 と、ひづめの音に顔を上げた奴隷兵の目に映ったのは、 片足を引きずって逃げる大男のスパルタ兵と、それを追う二騎のテバイ兵だった。


 大男のスパルタ兵の背や肩には、針刺しのように矢が突き刺さり、男が足を踏み出すたびざわざわと揺れ動く。


 馬に乗った二人のテバイ兵は、みるみる大男のスパルタ兵に追いつき、馬上から剣を浴びせかけた。


 血しぶき。


 奴隷兵は小川を飛び越え、素晴らしい速さで走りだした。


 途中で、速さと視界の邪魔になるかぶとを脱ぎ捨てる。


 美しい銀髪が風になびいた。


 ティリオンは銀の疾風となって、駆けた。


 数回剣を浴びせられ、大男のスパルタ兵カーギルは、ついに倒れた。


 テバイ兵のひとりが馬を降り、とどめを刺すべく両手で剣を垂直に上げる。


 横倒しになり希望を失ったカーギルが、自分の上の剣を口惜しそうに睨む。


 しかし、剣は下ろされなかった。


 横あいから襲った銀の風が、一瞬のうちにテバイ兵の首を飛ばしたからである。


 馬上のもうひとりのテバイ兵が驚く暇も与えず、連続した動きで高くジャンプし、馬の背に両足を乗せて敵の首に剣を突き通す。


 刺した剣はそのまま、返り血を浴びる前に馬の背を蹴って反転、空で回転して着地。


 血を噴き上げ、どさり、と音をたててテバイ兵の死体が馬から落ちた時は、ティリオンはすでにカーギルのそばに屈み込んでいた。

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