第047話
三月一日、水曜日。
午前九時頃、売買契約のために歌夜は不動産屋へと向かった。雲ひとつ無く晴れ渡った空の、穏やかな日だった。
「おはようございます、御影様」
店に入ると、店長の嬉野倖枝が笑顔で出迎えた。店には、倖枝以外の従業員は居ないようだった。
この店は本来なら定休日だが、今日が大安だという理由で
パーテーションで区切っただけの商談テーブルへと通された。
歌夜がこの店を訪れるのも、ここに座るのも、売却査定の問い合わせをして以来だった。あれから――三ヶ月は少し過ぎたが、結果的に買主が見つかった。
あっという間の短い時間だったと、歌夜は感じていた。しかし、これで
先週の館での出来事すら、どこかおぼろげだった。
あの場所で買主と会い、買付の申し出を受けたのは事実だった。そして、四億九千八百万円の一括購入。買主の個人資産らしいが、持っていてもおかしくない額だと思う。
しかし、なんだか現実味が無かった。予想しなかった結末も含め、まだ釈然としなかった。
「いよいよですね」
ニコニコした笑顔を浮かべ、倖枝がコーヒーを持ってきた。
あの日――この女に騙されて館に連れて行かれ、買主側に立たれ、剥き出しの私情を向けられたのも事実だった。しかし、歌夜は裏切られた気がしなかった。
買主が購入の意思を示した時のことを、現在も覚えている。歌夜自身も驚いたが、啖呵を切っていた倖枝も鳩が豆鉄砲を食らったような表情になった。
きっと、倖枝はあの小娘が買手になることを知らなかったのだろう。それも織り込み済みの『茶番』だったのなら、帰りに自動車内で猛烈に謝罪されても許さなかった。
それに――歌夜は倖枝を、現在も友人だと思っていた。歳がさほど離れていなく、似たような境遇の身でもあり、食事をしたことも談笑したことも、短い時間だったが、確かに楽しかったのだ。
「私はてっきり、あちらのオフィスでやるものだと思ってました」
「たぶん、私を入れたくないのでしょ」
「な、なるほど……」
先方は日時さえ指定したが、場所はどこでも構わないとのことだった。倖枝がここに双方を呼びつけた。
歌夜としても買主側の場所には行きたくなかったので、中立であるここになり、都合が良かった。
「お会いになられるの嫌でしょうけど……今回と次回の決済だけは、ご対面願います」
倖枝の言う通り、この場所だとしても会う事自体が歌夜は憂鬱だった。倖枝を代理人に立てての丸投げも考えたが、最後ぐらいはきちんと向き合おうと思った。
しばらくして、入り口の自動扉の開く音が聞こえた。
「いらっしゃいませ!」
出迎えた倖枝が連れてきたのは、学生服姿の少女と、スーツ姿の男性だった。
買主が姿を現した。
歌夜は、娘の高校の学生服姿を、離婚前の僅かな間しか見ていなかった。この用件が済み次第、遅れて学校へ行くのだろう。こういうかたちであれ、凛々しい佇まいと共に、成長したと歌夜に思わせた。
「御影様、こちら買主様である月城舞夜様と、その後見人である保護者の――」
「
スーツ姿の男性は倖枝の紹介を遮り、自ら名乗った。
オールバックの髪型にも関わらず物柔らかな笑みのため、胡散臭いと歌夜は思った。四十九歳の実年齢に対し、自分より歳下に見えるほど若い容姿も、理由のひとつだった。
歌夜はこの男と夫婦として二十年過ごしたが、何を考えているのか現在も分からなかった。
この国の民法では、未成年の者が不動産売買を行うには、親権を持つ後見人の同意が必要となる。倖枝による事前の説明から、それは理解していた。
しかし、どうして月城住建の社長ともある者が、わざわざ出てくるのだろう。この場は秘書が預かり、持ち帰った契約書類に記名押印するだけで構わないはずだ。
「月城様、こちら売主様である御影歌夜様です」
「ええ。久しぶりね」
だから――かつての家族三人がこのようなかたちで顔を突き合わせることに、歌夜は舞人の悪意を感じた。
他人らしく振る舞うのはバカらしいと思い、笑顔でそのように返した。
「本日はお忙しいところお集まり頂き、ありがとうございます。それでは、早速進めたいと思います」
歌夜の正面に、舞人と舞夜が着席した。倖枝が舞夜に、書類の束を差し出した。
対面テーブルの側面には、椅子がひとつ用意されていた。歌夜は、倖枝がそこに座ると思っていた。
しかし、倖枝は書類を片手に、歌夜の隣の席に座った。四人掛けのテーブルが埋まった。
歌夜としては隣の存在感が心強く、この居心地の悪い空間が幾分和らいだ。
「まず、重要事項の説明を致します。何かご不明な点がございましたら、お訊ねください」
「はい」
舞夜が倖枝に、にこやかに頷いた。
倖枝は売却物件の概要と特性を、買主に説明した。買主側にしてみれば長年の住居だったので、不明点などあるはずがなかった。
おそらく、この茶番のような説明工程も民法では必要不可欠なのだろうと、歌夜は察した。なんともバカらしかった。
「周りは静かで、住みやすい処ですよ。お家が広すぎるのが、難点ですけど」
大人気なくも、そのように皮肉を挟んだ。
「まあ。広いなら、沢山の客人を招くことが出来ますね――わたし、お知り合いが多いですので」
舞夜から笑顔でそのように返された。
まだ家族だった頃は、舞夜に知人が多いとは思わなかった。しかし、先日のパーティーで居合わせたことから、社交の輪を広げているのだろう。
それといい、このような態度といい――歌夜は娘の成長を感じ、内心は嬉しかった。
かつて自分に懐いていた幼い娘は、もう居ないのだ。
「あはは……。それでは、続けますね」
この様子に倖枝は苦笑し、重要事項説明を続けた。
それからは売買契約書の読み合わせを行い、二枚の契約書に、売主と買主の双方が記名押印した。
その一枚が歌夜に渡され、そこには『買主 月城舞夜』の他『法定代理人 親権者 月城舞人』と、かつての家族の名が記されていた。
かつての住居の所有権が、父親から母親、そして娘に渡った。事実としては、そのようになる。
しかし、家族間の贈与と登記変更ではなく、大金での売買というかたちだった。
ああ、実にバカらしい――記名押印された契約書を眺め、歌夜は改めてそう感じた。
「お間違いないでしょうか?」
倖枝の確認に、三人が頷いた。
それからすぐ、入り口の自動扉の開く音が聞こえた。銀行のだろうか――制服姿の小柄な女性が、大きな手提げのアルミケースを持って現れた。眼鏡をかけた顔は、無愛想だった。
「あれ? 二階堂さんが来てくれたんですか?」
「この店に一番縁があるから、という理由で行かされたんですよ――こんな大金持たされて。営業が行けばいいのに、なんで私が……めっちゃ重いし……」
倖枝は小声でそのようなやり取りを交わした後、ブツブツと不満を漏らしている女性を通した。
「月城様、現金五千万円をお持ち致しました」
「ありがとうございます」
女性はケースをテーブルに置き、舞夜の前で開けた。
それを舞夜は、開け口をそのまま歌夜に向けた。
「こちら、手付金となります」
歌夜が舞夜の言葉と共に見せられたのは、ケースに敷き詰められた札束だった。これだけでも充分な大金だった。舞夜が示す購入の意思なのだと、歌夜は改めて受け止めた。
女性はこの場で、帯封された札束が五十個あることを数えて確認し、立ち去った。
書面と手付金を以って、売買契約は締結した。今日のところの用件は、全て片付いた。後は残金の振込と登記の変更だが、それは後日の決済で行われる。
「手付金は決済まで私がお預かりします――重っ」
倖枝はケースを閉じると、それと二枚の契約書を持って立ち上がった。
「お持ち帰り頂く契約書と、領収書と預り証を準備して参ります。一度、失礼します」
「すいません。お手洗いをお借りしてもよろしいですか?」
「あっ、こちらになります」
倖枝が離れようとしたところ、舞夜も立ち上がった。
ふたりが居なくなり、歌夜は舞人と取り残された。
「やあ……元気だったかい?」
「お陰さまで、現在は生き生きしてるわよ」
かつての夫婦でふたりきりになるや否や、舞人が笑顔で話しかけてきた。
窓には明るい日差しが差し込んでいた。静かな店内で、冷めたコーヒーを前に――まるでカフェで過ごしているようだと、歌夜は思った。
舞人と会うのは離婚の後、初めてだった。
歌夜は、この男に愛想が尽きたわけではなかった。かといって、夫婦だった時は特別愛していたわけでもなかった。現在もそれは変わらない。
世界中に溢れている有象無象の男のひとり――そう割り切ろうとするが、二十年間の夫婦生活が思い留まらせた。絶縁ではなく、念のため、今後も『知人』のひとりとして片隅に置いておきたかった。
「ねぇ……。どうして、この店を紹介したの?」
離婚の際、財産分与で舞人からあの館を譲り受けた。
自社で売却後に金銭を分けても、舞人にとってははした金額。そもそも、館自体を押し付けることが彼にとっての皮肉。
歌夜にはそのような意図が伝わっていた。
『もしも売ってお金に替えたいなら、評判の良い不動産屋さんを教えるよ』
現在になり、なお――そのような助言を受けたことは解せなかった。
あの館を手にしたところで、持て余すことは目に見えていたはずだ。売却することは分かっていたはずだ。歌夜は、それを踏まえてこの店に導かれたような気がしていた。
不動産屋の知識が無かった歌夜は、言われるままに売却査定を依頼した。少しでもこの店が舞人を忖度するような真似をすれば、すぐに打ち切って別の店に移るつもりだった。
しかし、この店は月城住建の子会社ではなく、繋がり自体も無かった。今日の倖枝を見る限り、彼女はおそらく舞人と初対面だろう。
いったい、どういう根拠でこの店に寄こしたのか――こうして売却が片付いた現在、歌夜にはひとつの予感があった。
「実際、この店は評判通りだっただろ? 普通の店じゃ、そもそも預かってくれないよ? 現に、こうして買手を探してくるなんて、凄い手腕じゃないか」
「ふざけないで。何も知らないくせに……」
歌夜は、舞人自身が下界の評判など知るはずが無いと思っていた。きっと『他者』からの言付けをそのまま横に流しただけだろう。
「もし、私が違う店を頼っていたのなら……その時も、結果は同じだったのかしら?」
「さあ……どうだろうね……」
所詮、この男もただの『駒』に過ぎないのだ。
自分も駒としてこの店に導かれた現在『彼女』の視点に立とうとしたが――歌夜には、何も見えなかった。
「貴方はあの子を利用しているつもりでしょうけど、注意なさいよ。飼い犬に寝首を掻かれても、文句言わないことね」
確かに家族としての思い出ではあるが、こうまでして、あの館が欲しかったのだろうか?
いや、それだけなら、こんな回りくどいやり方はしない。目的は、きっと別にある。
いったい、何が狙いなのだろう。何が欲しいのだろう。
歌夜は釈然としないが――考えるのをやめた。
そう。自分の駒としての役割は、きっともう終えている。金を掴まされた現在、首を突っ込みたくなかった。
未練など無い。月城一族など、最早どうでもいいのだから。
「忠告ありがとう。でも僕は……それはそれで、面白いと思うよ」
舞人はコーヒーを一口飲み、にかっと笑った。
娘を必ず手中に収めるという自信があるのか、それとも本心でそう思っているのか――どちらにせよ、歌夜はかつての夫の身を案じることすら無かった。
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