第43章『魔女は暁に笑う』

第115話

 三月十四日、木曜日。

 倖枝は休日明けと思えないような感覚で、仕事に取り組んでいた。


 昨日、HF不動産販売ここで一件の不動産売買契約が行われた。

 売買契約自体は、珍しいことではない。業者の店舗や事務所で行われるのが一般的だ。

 しかし、倖枝が仲介業者として行う側ではなく、買い手として受ける側に立ったのは初めてだった。自分が住むための家屋の購入は、おそらく今後の人生で二度目と無いだろう。

 そのような貴重な経験に、月城住建から売り手として現れたのが、あろうことか舞人ひとりであった。いつも通りの飄々とした雰囲気で、手際よく契約を進められた。

 代表取締役社長といえど、販売資格の無い人間ではない。おかしいことでは無いのだが――


「社長さん……世間はとっても忙しい時期だと思うんですけど、お暇なんですか?」

「会社全体が忙しいからこそですよ。僕のような人間まで、動かないといけません」


 倖枝はつい訊ねると、それとらしい理由が返ってきた。要するに暇、もしくはからかうために現れたのだと感じた。

 初めての不動産売買契約は、良く言えば緊張することなく――悪く言えば気の抜けたものだった。

 同席させた咲幸はやはりつまらなそうだったが、手付け金の現金一千万円を見た時だけは驚いていた。


 昨日が休日で良かったと、倖枝は思う。あの間抜けな契約風景は、とても部下ふたりに見せられなかった。

 何はともあれ、契約自体は完了した。後は、来週の決済で残金の支払いと登記が済めば、引き渡しまで全てが終わる。

 倖枝は、卓上カレンダーを眺めた。可能であれば、社会勉強として咲幸を決済にも同行させたった。だが、卒業旅行で不在なので、仕方なく諦めた。


 午後七時になり、倖枝は店を出た。

 店の扉に『誠に勝手ながら本日は閉店致します』と手書きで記した紙切れを貼り付けた。営業時間の終了する午後八時までの一時間、おそらく飛び込みの客が訪れることは無いだろうが、念のためだ。

 店に戻ると、夢子と高橋は帰宅の身支度を行っていた。


「それじゃあ、今日はもうお開きで。皆、それぞれ頑張りましょう」

「……はい」

「ありがとうございます、店長」


 業務終了までの一時間半はこの時期にとって貴重な時間だが、今日は早く切り上げることになった。三人全員の合意のうえでだ。

 今日、世間はホワイトデーである。先月のバレンタインでは、三人それぞれが大事な人から受け取っている。だから、普段から世間と擦れ違い気味である中、今回は体裁を大切にした。

 倖枝は店を閉めると、自動車でスーパーマーケットへと向かった。その後、食材を買い込み、帰路を走った。


「おかえり、ママ」

「おかえりなさい。何を作ってくれるのか、楽しみです」


 午後七時四十分。咲幸と舞夜のふたりが、倖枝の帰宅を出迎えた。


「ただいま。お腹空いてるでしょ? 今作るから、楽しみに待ってなさい」


 倖枝は手洗いうがいを済ませ、スーツから私服に着替えた。そして、エプロンを纏いキッチンに立った。

 バレンタインに、ふたりから手作りのチョコレートケーキを食べさせて貰った。その礼としてホワイトデーに何を返そうかと悩んだ。

 衣服や装飾品等、形として残るものは敢えて避けた。市販の化粧品や菓子は、なんだか味気ない。手作りのものを貰った以上、手作りのもので返したいと思った。

 そして、母親らしい一面を見せたいとも思い、手料理を振る舞うことにした。

 だが、倖枝は普段から料理をあまり行わないため、凝ったものは作れない。それでも、特別感があり、食事を楽しめるものを考えた結果――

 倖枝はキャベツの千切りから始め、ボウルに三人前の『生地』を作った。ホットプレートが無いため、熱したフライパンに油を引き、生地を広げた。


「わぁ。いい匂い」

「お好み焼きですか?」


 まだソースは使用していないが、粉もの独特の香ばしい匂いがフライパンから立ち上った。換気扇を回していても室内にまで漂い、リビングでテレビを観ていたふたりがキッチンカウンターに寄ってきた。


「そうよ。まずは、豚玉からね」


 片面を四分焼くと、薄い豚バラ肉を載せ、ひっくり返した。大きめのコテを両手でふたつ使っているせいか、失敗はしなかった。

 倖枝はお好み焼きに精通しているわけではないが、これならば作ることができる。また、料理の腕に味も左右されない。薄い生地に千切りキャベツを挟む作り方は難しいため、あらかじめ粉とキャベツを混ぜている方だが。

 時間をかけて両面を焼くと、フライパンの上でソースとマヨネーズと青のりと鰹節をかけた。それを四等分したものを大皿に載せ、キッチンカウンターに差し出した。


「すっごい美味しそうです!」

「これには炭酸だよね。コーラーかサイダーあったかな?」


 咲幸がキッチンに回り、箸と小皿を出すと共に飲み物の準備も行った。


「母さんの分はいいから、食べれるだけ食べなさい。次はイカ玉ね」


 倖枝は再びフライパンに生地を引き、次は小さく切ったイカの他――ふたりの少女が喜ぶと思い、薄い餅とナチュラルチーズも載せた。さらに少量の生地を垂らし、裏返した。

 フライパンに蓋を被せて焼いている間、三枚目の準備として、焼きそばの生麵を電子レンジで加熱した。


「美味しいです」

「お好み焼き作ってくれるの、久しぶりだね。サユ、ママのお好み焼き好きだよ」


 ダイニングテーブルで向かい合って食べているふたりからは好評であり、倖枝はひとまず安心した。ホワイトデーなのにお好み焼きかと批難を覚悟していたが、そのようなことは無かった。


「久しぶりだっけ? ……そうかもね」


 咲幸の言葉が意外だったが、確かに最後に作ったのがいつなのか思い出せなかった。

 倖枝は過去より、お好み焼きが好きな料理のひとつだった。だから、母が作る際は付き添い、調理法を覚えた。母親らしい料理としてこれが浮かんだのは、そのような理由であった。


「えっとね……。スーパーで売ってる粉にキャベツと卵と紅生姜と天かすでしょ……隠し味に、すりおろした山芋とめんつゆ、昆布茶とマヨネーズを入れて……裏面は蓋して蒸し焼きにすれば、この味になるわ」


 調理法は何度か行う内に、身体が覚えていた。改めて口で説明すると、なんだか複雑に感じた。


「いきなり言われても、覚えられないよ! 紙にでも、レシピ書いておいて」

「そうね……」


 倖枝は頷くと、加熱した焼きそばにソースを絡め、フライパンの生地に載せた。最後の三枚目はモダン焼きだ。

 調理法の他、使用する市販の粉や調味料等――咲幸も知っている部分はあるだろうが、なるべく詳しく書いておこうと思った。代々伝わる味は、限りなく再現できる方が良い。


 モダン焼きまでを作り終えた倖枝は、すぐにリビングのテーブルで調理法を書き記していた。調理したばかりなので、事細かに書くことが出来た。

 食欲が無いわけではない。むしろ、匂いも合わさり空腹を感じている。だが、義務感から筆が進んだ。


「ママ、早く食べないと冷めちゃうよ?」


 咲幸がキッチンで、何か温かい飲み物を淹れているようだった。

 ふたり掛けのキッチンテーブルで、ふたりは食事を終えていた。三枚のお好み焼きの残り物が、置かれているだろう。


「うん。もうちょっとしたら食べるから、置いておいて」


 現在すぐにでも食べたいところだが、調理法を書き留める方が大切だった。これも、倖枝が咲幸に遺せる数少ない内のひとつなのだから。


「ごちそうさまでした、倖枝さん。……へぇ。それが嬉野家の味なんですね」


 キッチンテーブルからやってきた舞夜が、テーブルを覗き込んだ。


「そうなのかもしれないけど……そんな大したもんでもないわよ」

「そんなことないよ。サユの大事な味だもん」


 ふたつのマグカップを持って、咲幸も現れた。まだ部屋の中はソース臭いが、倖枝の元に紅茶の匂いが漂った。

 倖枝は早々と書き上げ、立ち上がった。


「わぁ。ありがとう、ママ。今度はサユが、これ見て作るね」


 テーブルに置いたままの紙を見て、咲幸が嬉しそうな声を上げた。お好み焼きだけではなく、この覚書もホワイトデーの贈物になったと倖枝は思った。

 ふたりと入れ替わりで、キッチンへと向かった。

 倖枝は、お好み焼きなので缶ビールを飲もうと冷蔵庫を開けるが――舞夜を自動車で送り届けなければいけないことを思い出した。仕方なく、コーラーで我慢した。

 三枚のお好み焼きは、もう冷めていた。だが、温め直すのが面倒なので、そのまま食べた。


「そうだ……。今日じゃなくてもいいから、さっちゃんはカレーのレシピ書いておいてくれない?」


 自分が調理法を記したことで、このように知りたい料理があることに気づいた。

 嬉野家のカレーの味は、倖枝の母親から咲幸へと受け継がれている。倖枝は知識として習得しようとしたが、複雑のため覚えられなかった。咲幸が書面で調理法を欲しがった気持ちが、わかった気がした。


「うん、いいよ。任せておいて」

「咲幸の作るカレー、わたしも文化祭で食べたけど、すっごく美味しかったわ」

「でしょ? 我が家の秘伝の味だよ!」


 威張るほどでもないと倖枝は思うが、カレーは過去より慣れ親しんだ味が一番美味しかった。咲幸にとっても同じなのだろう。


「舞夜ちゃんは、そういう家の味は無いの?」

「えっ」


 庶民の些細なこだわりなど、富裕層にはあるわけが無い。そもそも、舞夜は肉親の作った料理を食べる機会が少ないだろう。実際、訊ねられて困った様子だった。

 倖枝はリビングを眺めると、咲幸に悪意が無いようだった。ただの興味本位で気まずい話題を振ったのだ。無自覚、かつ無邪気に踏み込んだと思いながら、冷めたお好み焼きを食べた。


「そうね……お味噌汁にジャガイモが入っていると、許せないわ」

「……なんか、普通ね」


 舞夜が苦しいながらも絞り出した言葉に倖枝は白け、つい率直な感想を漏らした。回答が少しずれているが、それには敢えて触れなかった。

 舞夜とのやり取りに、咲幸が腹を抱えて笑った。


 午後九時頃、食事が済み一段落ついた。

 倖枝は舞夜と自宅を出ると、自動車に乗り込んだ。


「うっ、ソース臭いわね。ちゃんと洗濯しなさいよ?」

「はい」


 密室に入った途端、衣服や身体に染み付いた油とソースの香りが臭った。車内に脱臭剤を置いているが、明日も匂いが残りそうだと倖枝は思った。

 まだ夜は冷え込むが、助手席に座る舞夜が窓を少し開けた。倖枝も同じく、脱臭のために運転席の窓を少し開けて、自動車を走らせた。


「……大丈夫ですか?」


 夜道を運転していると、隣からぽつりと訊ねられた。

 何が大丈夫なのか――倖枝にはわかっていた。咲幸と互いに調理法を教え合う様子を見て、舞夜が心配するのは無理がない。


「ええ。大丈夫よ……」


 それは嘘だった。倖枝は食事の時からずっと、現在も余裕が無かった。泣き出したい感情が込み上げるのを、我慢していた。

 それでも『娘達』の前では、気丈に振る舞わなければいけなかった。


「あと、もう少しだから」


 倖枝は決意を確かめるように、ハンドルを強く握った。


「そうですね……」


 抑揚の無い声と適当な相槌は、まるで憐れんでいるように聞こえた。

 ――倖枝は舞夜から、同情が欲しいわけではなかった。この少女は『共犯者』ではなく『被害者』なのだ。

 舞夜がどのような表情を浮かべているのかわからないまま、館のある暗い森へと自動車を走らせた。

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