第116話
三月十八日、月曜日。
倖枝は、いつもより早い午前七時に起床した。
リビングには、咲幸のボストンバッグが置かれていた。それを見て、昨年のインターハイ本戦への遠征を思い出した。
しかし、現在の咲幸はもう高校生ではない。学生服姿ではなく、私服姿だった。
「忘れ物ない?」
「うん、大丈夫!」
「やっぱり、駅まで送っていってあげようか?」
「平気だよ。ママここのところ疲れてるんだし、休んで」
咲幸が今日から二泊三日で卒業旅行に出かける。せめて出発を見送ろうと、倖枝は早起きをした。
咲幸には黙っているが、三日後の帰りは『用事』があるため駅まで迎えに行けない。気遣いと共に、クロスバイクを使用してくれることが嬉しかった。
「それじゃあ、行ってくるよ」
「楽しんでらっしゃい。……気を付けてね」
力強く頷く咲幸を、倖枝は玄関で見送った。
咲幸が高校生の時、部活動の遠征は、顧問教師が付き添っていた。思えば、友人同士だけで外泊の旅行を許したのは、これが初めてだった。
不安が全く無いわけではない。だが、咲幸はもう言動を制限される年齢や立場でもない。
それに、僅かな時間とはいえ、こうして進んで親元を離れることが、倖枝は嬉しかった――まるで、肩の荷が下りたかのようだった。
倖枝は踵を返して部屋に戻ると、そのまま朝食の支度をした。二度寝をすることなく、朝の時間をのんびりと過ごした。
とても静かだった。
この部屋でひとりで居ることは珍しくない。しかし、現在は静寂と孤独が永遠に続くかのように思えた。
窓の外は明るく良い天気だった。春が近づいているのを感じさせた。
午前九時になり、倖枝は戸締りを念入りに確かめた。そして、仕事用の鞄と着替えの入った鞄を持ち、自宅を出た。
HF不動産販売に出勤後、ひとりで店を開けた。今日は偶然にも、夢子と高橋の両名が、朝一番からそれぞれの用件に向かっている。予定では、ふたりの出社は午後からだ。
ここでも、小さな店が広く感じるほどの孤独を感じるが、僅かな間だった。倖枝もまた、朝一番から予定が入っていた。
「いらっしゃいませ!」
午前十時、開店時間と共にふたりの客が訪れた。
「お世話になります、嬉野さん」
「おはようございます」
スーツ姿の男性と、小綺麗な格好の女性――月城舞人と舞夜の父娘だった。
今日はこれから、舞夜の所有する土地を舞人に売るという案件の、売買契約が行われる。
身内間の土地取引で、当事者ふたりが揃って訪れることは、倖枝にとって初めてではない。だが、極めて珍しい事例だ。
「こちらにどうぞ」
倖枝は商談テーブルにふたりを通すと、給湯室で二杯のホットコーヒーを淹れた。
舞夜から土地の売却仲介を預かったとはいえ、父娘間であれば譲渡と登記変更で済ませばいい。そのように思いながら、トレイを手に商談テーブルへと戻った。
人気の無い静かな店舗と、明るい窓――確か、一年前も同じように奇妙な案件を預かったと、倖枝は思い出した。
あの時は、書面だけで済む契約を、双方がわざわざ対面した。
あの時は、かつての家族三人での売買を仲介した。
あの時は、御影歌夜の隣に座った。
だが今日は、向き合っているふたりにコーヒーを差し出すと、倖枝は舞夜の隣に座った。
「それでは、契約の方を始めさせて頂きます」
やはり、奇妙な感覚だった。
倖枝は舞夜の仲介業者として契約を進めていると、かつて彼女の未成年後見人だったことを思い出す。
そう。舞夜の保護者代理を務めた。
その期間が終わると、次は戸籍上の、本当の母親に成るはずだった。歌夜の代わりに成るはずだった。
現在ここに居る三人は、家族に成る可能性があった。
しかし、倖枝はそれを拒んだ。
ふたりに対する罪悪感が全く無いわけではない。それでも、窓の外に広がる穏やかな春先の気候のように、心は晴れていた。
まるで、本当の家族のように――クリスマスに三人で楽しく食事をしたのは、淡い思い出となっていた。
「以上、何か不明な点はございませんか?」
倖枝は、三件ある土地売買全ての重要事項説明を終えた。
「はい。大丈夫です」
「でしたら、サインをお願い致します」
買主である舞人が頷くのを確認すると、ふたりに合計六枚の契約書を順次回した。
舞人は個人ではなく、株式会社月城住建の担当として来ていた。社判で充分だが、わざわざ契約書に手書きで署名した。
舞夜も、クリップがペリカンのクチバシを彷彿とさせるボールペンで、丁寧に署名した。
今回売買した土地三件は全て、舞夜が以前から購入していた『上物あり』のものだ。合計七千万円で売れ、倖枝の知る限り、舞夜が約三千五百万円を儲けたことになる。
「ちなみに、この土地をどう活用なさるのですか?」
舞夜がわざとらしく訊ねた。
倖枝は以前から用途がわからなかったが、こうして月城住建が買い取ったことで、舞夜の意図を理解した。
「家を建てて売るだけですよ――それが私の
舞人もわざとらしく、月城住建の代表取締役社長として答えた。
三つの土地はそれぞれ再建築不可だが、一筆にすることで建築基準法を満たす。おそらく二区画の分譲地として販売するのだろうと、倖枝は思った。
もしかすれば、昨年から預かっていた分譲地も、舞夜が用意したものなのかもしれない。
「それはよかったです。有効活用してください」
舞夜のその言葉を、ただの世辞だと倖枝は捉えた。現在は、父親の会社を相手に、それを言える立場なのだ。
何気ない言葉が、背伸びや見栄ではなく――父親へ決別を告げるように、聞こえた。
その後、手付け金の授受が行われ、契約は無事に終えた。
ふたりの父娘は、冷めたはずのコーヒーを微笑みながら飲んでいた。まるで、喫茶店で寛ぐかのようだった。
「良い天気だね、舞夜」
「はい……」
居心地が良さそうなふたりの様子に、倖枝は店長として嬉しかった。
コーヒーを飲み終えると、ふたりは立ち上がり、玄関へと向かった。
「今日はありがとうございました」
謝辞を述べる舞人と共に、舞夜も頭を下げた。
「こちらこそ、ありがとうございました! またのご利用を、お待ちしております!」
倖枝は店頭で深々と頭を下げ、ふたりの乗る自動車を見送った。
顔を上げると、晴れ渡る青空が広がっていた。冬の寒さは和らぎ、頬に触れる柔らかな風が、春が近いことを告げた。
温かな陽射しの下――舞夜の不動産売買を仲介するのはこれが最後であると、倖枝は確信した。
*
午後八時半になり、倖枝は店を閉めた。
その後、自宅には帰らず――自動車で向かった先は、舞夜の館だった。
「お仕事、お疲れさまでした。夕飯の支度できてます」
玄関の扉を開けると、舞夜が出迎えた。靴の数から、やはりこの時間は舞夜ひとりしか居ないようだった。
夕飯は、家政婦が事前に用意したものだろう。玄関まで、トマトを煮込んだような匂いが漂っていた。
倖枝はパンプスからスリッパに履き替えた。ふたりで廊下を歩き、キッチンに向かっていたところ――舞夜を、背後から抱きしめた。
「ちょっと、倖枝さん?」
舞夜は少し困惑しながらも、足を進めた。嫌がっているわけではないようだった。
そんな舞夜に、倖枝は黙ってしがみついた。まるで、小さな子供のようだった。
ふたりでリビングの扉をくぐった。キッチンへと向かおうとする舞夜を、倖枝は強引にリビングへと運んだ。そして、ソファーに押し倒した。
「ねぇ……。キスしてもいい?」
倖枝は訊ねると、きょとんとしていた舞夜が、小さな笑みを浮かべた。
覗き込んだ舞夜の顔――藍色の瞳に、自分の顔が映っているのが見えた。
とてもひどい表情だった。泣き出しそうなのを必死に堪えながら、懇願していた。
「料理、冷めちゃいますよ?」
その言葉を、否定ではないのだから肯定だと受け取った。実際、倖枝にとって現在は食事など、どうでもよかった。
舞夜の唇に、自分のものを重ねた。
この少女とキスをするのはいつ以来だろうと、ぼんやりと思った。まして、舌を絡めるとなれば、さらにさかのぼるだろう。それほどまでに、遠い過去のように感じた。
そう。それまでの間、舞夜の母親として振舞っていたのだった。倖枝なりに努力していたのだった。
もう努力を諦めたわけではない。その必要が無くなっただけだ。
「倖枝さん、ここでは嫌です」
「私のこと、名前はやめて――どう呼べばいいのか、わかるでしょ?」
「せめて、ベッドに行きましょう……お母さん」
とはいえ、倖枝は手放せなかった。懐かしい
これまでの疑似的な母娘関係は、きっと『茶番』だった。契約を結んだ当初はそのように感じたが、現在――改めて感じた。
だが、虚しさは無かった。再度、くだらないゴッコ遊びに興じたい気分だった。
それらを踏まえ、倖枝は舞夜と身体を重ねた。舞夜の要望に耳を貸さず、ソファーで舞夜の身体の至る箇所にキスをした。
気分が昂った、その時――倖枝の鞄で、携帯電話が短い受信音を告げた。メッセージアプリのものだ。
現在は午後九時過ぎ。倖枝は冷静さを取り戻して時刻を把握すると、仕方なく舞夜から離れた。
半裸姿のまま、鞄から携帯電話を取り出した。
『ママ、お仕事お疲れさま! 串カツ、めっちゃ美味しかったよ!』
咲幸からそのメッセージと共に、何枚かの写真が送られてきた。おそらく、夕飯だったのだろう――揚げた串カツを両手で複数持っている姿や、日中の観光地でのものだ。中にはホテル内のものがあり、今夜は無事に宿泊できるのだと安心した。
倖枝はそれらを見て、ひとり微笑んだ。
『美味しそうね。母さんも今から晩御飯よ』
倖枝はそのように返信すると、携帯電話をテーブルに置いた。
「どうします? 続き、やりますか?」
舞夜はそう訊ねるも、衣服と髪を整えながらキッチンへと向かっていた。
携帯電話を舞夜に見せなかったが、倖枝の目から舞夜は事情を察したような様子だった。
倖枝としても、邪魔が入り、気分はすっかり白けていた。ソファーから立ち上がり、格好を正して舞夜に続いた。
キッチンテーブルに用意されていた夕食は、サラダの他、鶏肉のトマト煮込みだった。
「んー。美味しいわね」
にんにくの香味とトマトの酸味が柔らかな鶏肉とよく合い、カゴに置かれていたパンが進んだ。
「お酒どうですか? ワインありますよ?」
「私ひとりだから、遠慮しとくわ」
美味しい料理があるのだから本音としては飲みたいところだが、倖枝は断った。現在は、多少なりとも酔いたくなかった。
「わたしも飲めれば良かったんですけどね」
「そうね……」
そういえば、バーで初めて会った時、舞夜はノンアルコールのモヒートを飲んでいた。
倖枝は、ふと思い出した。そして、願わくば――いつか舞夜と、酒を交わしたかった。
食後少しの間を置き、舞夜が風呂に入った。
倖枝は舞夜から一緒に入りませんかと誘われたが、断った。
舞夜の入浴中、咲幸と電話で話したかったのだ。
電話越しに、咲幸の楽しい喋り声を聞いた。倖枝は適当に相槌を打ちながら、改めて無事を確かめた。
舞夜に続き、倖枝も風呂に入った。
入浴後、リビングのテレビでつまらない映画を一緒に観た。静かな夜だった。
観終わる頃には午前一時を回り、舞夜のベッドにふたりで入った。
今日の仕事終わりに訪れることは、何日も前から舞夜に伝えていた。
目的は伝えていないが、舞夜との性交だった。しかし、一度萎えてしまった気持ちが再度沸き立つことは無かった。
このベッドで何事も無く一緒に寝る。過去にもこのようなことがあったと、倖枝はぼんやりと思い出していた。
「倖枝さん……明後日、デートしません?」
ふと、舞夜が訊ねた。
「明後日って……」
「昼間は時間ありますよね?」
「そうだけど……どこ行きたいのよ?」
「水族館です。ほら、あそこの――」
舞夜が挙げた所は、昨年に咲幸と三人で行った所だった。倖枝は、ベッドの枕元にあるクラゲのぬいぐるみに目がいった。
さらに舞夜へと移すと、まるで幼い子供のように瞳を輝かせていた。デートというより強請っているようだと思った。
「わかったわ。行きましょう」
「はい! うんと可愛く、おめかし頑張りますよ!」
こちらを気遣ってか、それとも純粋に楽しみなのか、舞夜の意図は分からない。
それでも、喜んでいる舞夜を見て、倖枝も少し嬉しくなった。一緒に楽しもうと思った。
ただ、明後日の水曜日、今朝テレビで観た天気の週間予報で雨を告げていたことが――屋内施設とはいえ、少し気がかりだった。
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