第117話
三月十九日、火曜日。
咲幸が卒業旅行で居ないため、倖枝はひとりでモデルハウス購入の決済を終えた。銀行に抵当権こそあるものの、登記変更により所有権が自身に移った。
大金が動いたが、購入したという実感も喜びも湧かなかった。手に入れた家の鍵をこの日は使用することなく、地方銀行から自宅であるマンションへと帰宅した。
三月二十日、水曜日。
倖枝は午前七時半に起床した。外から雨音が聞こえた。
朝食を摂ると、舞夜とのデートの支度をした。
服装選びに悩んだ挙句、白のニットとデニムパンツに、カーキのトレンチコートを羽織った。
そして、舞夜から誕生日の贈物として貰ったネックレスを久々に着けた。ちょうどニットがVネックだったので、鏡を見ると映えていた。
鞄と――傘を持ち、倖枝は自宅を出た。
前回は駅まで迎えに行ったことを思い出しながら、自動車を走らせた。あの時は、咲幸も居た。
館まで向かい、舞夜を拾った。
「あんた……もう高校卒業したのよね?」
倖枝は半眼で、助手席に座る舞夜を眺めた。
舞夜の格好は、大きな襟が特徴的な白いブラウスと、黒いプリーツスカート。ピンクのカーディガンを羽織り、頭には赤いカチューシャが載っていた。
「可愛くないですか?」
「そりゃ、可愛いけど……」
格好こそ幼いが、倖枝の目には可愛く――そして、長い綺麗な黒髪と自然体を意識した化粧から、似合っているようにも見えた。
「たぶん……そんな格好で大学行ったら、浮くんじゃない?」
「そうですか? 全然アリだと思いますけど」
舞夜自身は気に入っているようで、ニコニコと笑っていた。
現在のような幼く可愛い格好は、倖枝はこれまで何度も見てきた。やはり高校生の時から何も変わっていないと思い、苦笑した。
「雨、降ってますね……」
舞夜がぽつりと漏らした通り、自動車のフロントガラスを、ワイパーが規則的に動いていた。
空に広がる雲の様子から、晴れ間が訪れる気配は無い。打ち付けるほど強いものではなく、小雨と呼べるほど弱くもなく、嫌な天気だと倖枝は思っていた。
「今日はずっと降るみたいよ。桜が咲く前でよかったわ」
今朝、自宅で観たテレビの天気予報では、そのように言っていた。
全国的に降ると聞き、卒業旅行最終日の咲幸が可愛そうだった。帰りの新幹線に支障が出ない程度なのが、幸いであるが。
「雨でも、イルカショーはあるみたいですよ」
嬉しそうな舞夜の声に倖枝はふと、助手席へ横目を向けた。
水族館のことを調べたのだろう。携帯電話を触れている舞夜の――右手小指に、黒猫の指輪が嵌っているのが見えた。
「雨なら、空いてるといいわね」
今日は倖枝にとっての休日だけではなく、世間は祝日だった。通常の天気ならば、水族館は混雑しているだろう。
「どうでしょうね……。雨なのに水族館に行く物好き、わたし達だけかもしれませんけど」
「違いないわ」
舞夜と笑い合いながら、倖枝は自動車を運転した。
憂鬱な天気だが、気分は幾分和らいだ。
舞夜の館を出ること、約一時間半。午後十一時頃、ようやく目的地に到着した。
やはり、雨だからだろうか。駐車場と建物入り口での感触として、想像していたより混んでいないと、倖枝は思った。
実際、チケットを購入して館内に入ると、まだゆとりを持って歩けた。
昨年に一度来ているので、倖枝は懐かしく感じた。広い水槽を無数の魚達が泳いでいるのを、再度観ても迫力があり、飽きなかった。
舞夜が無言で手を握ってきた。倖枝は特に驚くことなく、手を握り返した。
ふたりで手を握り、ゆっくりと歩いた。
周りからはどう見えているのだろうと、倖枝はふと思う。母娘か、姉妹か――果ては恋人か。かつては周囲を意識したことがあったが、現在はどうでもよかった。
ただ舞夜と居るだけで、満足だった。舞夜の手が、とても温かく感じた。
何気なく歩いていたが、向かう先は限られていた。エレベーターを下り、クラゲの居る一帯に来ていた。
薄暗い部屋の水槽で、青白い影がゆらゆらと揺れていた。何度観ても幻想的だと、倖枝は思った。
「あんたは、ちゃんともがいたわね……」
手を繋いで水槽を眺めたまま、ぽつりと漏らした。
無数のクラゲ達が、広くて狭い水槽の中、
この儚い光景がとても力強く、そしてとても美しかった。
「私は沈んだままよ……。泳ぐことを、やめたの」
倖枝は小さく自嘲した。
水槽の
「いいえ――倖枝さんは、ちゃんともがきました」
倖枝は、繋いでいた手が強く握られたのを感じた。そして、隣に立っていた舞夜に顔を覗かれた。
「もがいた後に敢えて沈むのは……ただ沈むよりも、きっと難しいことですよ。一度陽の光を浴びたら、暗い所には戻れないと思います」
見上げる真っ直ぐな瞳は、強く倖枝を否定した。言葉と合わさり、不思議と説得力を感じるものだった。
「諦めたわけじゃないって、わたしは知っていますから」
この少女こそが、自分を理解してくれている世界でただひとりの人間だと、倖枝は分かっていた。
理解者が欲しいわけではない。しかし、その言葉は倖枝の心に優しく触れた。
瞳の奥が熱くなるが、倖枝は我慢した。まだ泣くわけにはいかない。まだ緊張感を解くわけにはいかない。
「ありがとう……」
倖枝は強引に笑顔を作り、舞夜に微笑みかけた。
ずっと沈んでいる方が良い。一筋たりとも光を知らない方が良い。
そのようなクラゲが、もし居るのなら――きっと幸せなのだろうと、水槽を眺めて思った。
その後、エレベーターを上がり、外へと出た。
売店や休憩場所のある海に面したウッドデッキは、屋根こそあるが雨のため、さらに人気は少なかった。
倖枝は売店でホットカフェラテをふたつ購入し、舞夜とウッドデッキ隅にある喫煙場へと歩いた。喫煙場には誰も居なく、ふたり並んでベンチに座った。
室内からの移動、そして雨が降っていることもあり、肌寒く感じた。
加熱式タバコの電源を入れ吸っていると、ベンチに置いていた左手に、舞夜の右手がそっと重なった。
「連れてきてくれて、ありがとうございました。わたしにとっての卒業旅行ですね、これ」
倖枝は雨の降る海を眺めながら、舞夜の声を聞いた。
二日前、舞夜に不動産売買契約の用件があったため、咲幸と卒業旅行に行けなかったことは事実だ。他の参加者との仲で参加し辛いにしても――契約が終わり次第向かい、合流することは可能だった。いや、参加の意思があるならば契約日自体を変更していたはずだ。
そう。契約をあの日に宛がったのは、あくまで倖枝が計画した咲幸への『建前』だった。舞夜が咲幸と行かなかった真の理由は、別にある。
「卒業旅行……ね」
倖枝はタバコを一口吸うと、ぽつりと漏らした。
本来の卒業旅行とは、卒業を祝っての旅行を意味する。しかし、舞夜の言葉は『倖枝から卒業するための旅行』のように聞こえた。
――あながち間違っていないと思った。
「こんな所でよかったの?」
隣を向き、舞夜に苦笑した。
もしかすれば、舞夜なりに卒業旅行を計画していたのかもしれない。学生として最も楽しい時期に、自分の計画に付き合わせた罪悪感が、倖枝には少なからずあった。
「倖枝さんと一緒なら、どこだって楽しいですよ」
舞夜は倖枝を見上げ、明るく微笑んだ。
子供のような無邪気な笑顔が、倖枝には本心を言っているように見えた。だから、嬉しかった。
「ひとつだけ……卒業旅行の思い出作り、いいですか?」
舞夜はそう訊ねると、倖枝の返事を聞くことなく、顔を倖枝に近づけた。
少女の唇の柔らかさを、倖枝は感じた。
重ねていた手に、指を絡められた。手の温もりだけではなく、指輪の冷たい感触も伝わった。
ああ、そうだ――かつて、この水族館でふたりの少女のキスを目撃した。
嫉妬したはずだが『どちらに』かは思い出せない。とはいえ、現在となってはどうでもいいため、記憶を深追いする気にはなれなかった。
耳に触れる断続的な雨音が、心地よかった。まるで、どこまでも続くかのように響いていた。
*
水族館を楽しんだ後、地元の街まで戻った。ショッピングモールで買い物をし、夕飯までを済ませた。
陽はすっかり落ちていた。
倖枝は舞夜を自動車に乗せたまま、自宅のマンションに帰宅した。館に送り届けなかった。
時刻は午後十時過ぎ。玄関の扉を開け、暗いリビングの灯りを点けた。
誰も居ないため、静かだった。
テーブルには、カレーの調理法の覚書が置かれていた。咲幸が卒業旅行の出発前に書いたものだ。倖枝はそれを横目にトレンチコートを脱ぎ、ソファーの背もたれに掛けた。その隣に、舞夜がカーディガンを置いた。
振り返ると、舞夜がブラウスのボタンを外していた。さらに、プリーツスカートも脱ぎ――衣服を床に散らかした。カチューシャまでも外したが、黒猫の指輪は嵌ったままだった。
倖枝もまた、衣服を床に脱ぎ捨てた。
床に衣服が散乱している光景は、なんだかわざとらしいと思った。
「倖枝さん……」
下着姿で向き合うと、舞夜が倖枝を見上げた。
その表情は恍惚とも、今にも泣き出しそうとも、倖枝は捉えることができた――自分の中で、そのふたつが入り混じっていたからである。
「ええ。始めましょう」
倖枝は舞夜を抱きしめ、キスをした。そして、舞夜をソファーに押し倒した。
――これまでで、一番激しい性交だった。
口や手だけでなく、全身で舞夜を感じた。舞夜も同じだった。互いを強く求めあった。
いっそ、狂ってしまえばいい。いっそ、舞夜とひとつになってしまえばいい。倖枝はとにかく、この瞬間だけは何も考えたくなかった。
だが、思考は完全に飛ばなかった。頭の片隅で、時間を気にする部分があった。
鞄の中で携帯電話が短い受信音を告げるのを、認識する余裕が残っていた。
恐怖が静かに込み上げるが、もう退けない。
月城舞人に指輪に返した時から――いや、舞夜の『夢』を訊いた時から、とうに覚悟は出来ている。ここまでは計画通りだ。
倖枝は恐怖を払拭するかのように、舞夜を求めた。少しでも気を抜けば、一気に崩れそうだった。
雨音が、鬱陶しく鳴り響いていた。
「たっだいまー」
しばらくして、遠くから玄関の扉が開く音と共に、咲幸の声が聞こえた。
きっと、駅から雨に濡れただろう。それでも、卒業旅行を楽しんだことがよくわかる、上機嫌な声だった。
時刻は午後十一時。予定通りだと――倖枝は最後に思った。
まるで、あの夏の日の再現だった。
違うのは、リビングの扉が開いてなお、ソファーのスプリングが軋んでいた。
舞夜が振り返ることもなかった。
「……」
そして、立ち尽くす咲幸の表情が怒りに変わることもなかった。
代わりに浮かんでいたのは――失望だった。初めて見たその表情に、はっきりと何かが『切れた』ことを倖枝は確信した。
同時に、頭の中が真っ白になった。
それから少しの間、倖枝の記憶は飛んだ。
我に返った時、リビングには舞夜とふたりきりだった。
自分の心臓の鼓動が、うるさく聞こえた。計画が上手くいったのだと、倖枝は理解した。
咲幸に自分自身の幸せを掴ませるために、ひとり立ちを見送らなければいけなかった。
まず、倖枝自身が伴侶と添い遂げ、咲幸に心配かけないよう整えるはずだった。
しかし、それが出来ないのなら――片親の立場で、これからの咲幸の足を引っ張らないためには――強引に引き離し、
せめて、咲幸が大学を卒業するまでは待つつもりだった。しかし、咲幸との仲がこれから一層深まることを危惧し、計画を前倒しにした。
かつて咲幸と互いに出しあった『母娘で居る条件』を破棄しただけではない。舞夜の協力を得て、再度の『裏切』という、これ以上ない
勘当ではなく絶縁だ。咲幸に落ち度は一切無い。
きっと大丈夫だ――咲幸が去った現在も、倖枝は咲幸の将来を真っ先に考えた。
娘は高校を卒業し、大学に入学する。そして、成人の年齢を迎えている。何事もよく考え、言動には責任を負い、きっとひとりで生きていけるだろう。
もう立派な大人だ。もう母親は不要なのだ。
それだけの力があることを知っている。あの子は、自慢の娘だ。
世界中の誰よりも倖枝は、自分の娘が幸せに成ることを――成れることを、信じた。
そう。嬉野倖枝は『母』として足掻くために『女』として溺れることを選択したのであった。
さようなら。
倖枝はそっと漏らすが、声が掠れて出なかった。
瞳の奥から熱いものが込み上げた。我慢することなく流した。
溢れ出す感情をせき止めることなく、嗚咽を漏らした。
取り返しのつかない行動を取った自覚はある。しかし、正しい選択であったと絶対の自信もある。
後悔は無い――舞夜に優しく抱きしめられながら、倖枝は自分に言い聞かせた。
それから先、感覚は虚ろだった。
舞夜とキスをして、身体を重ねて、時々寝て、ぼんやりして――しかし、あれは悪夢ではなく現実だったと、確かな手応えだけはあった。まるで、心臓を鷲掴みにされているようだった。
起きているのか寝ているのか、わからない。生きているのか死んでいるのか、わからない。
世界の終わりでも意外と落ち着いて居られるのだと、倖枝は思った。いや、諦めただけなのだと失笑した。
やがて、窓の外に広がる暗闇が、薄っすらと白みを帯びてきた。いつの間にか、耳障りな雨音は聞こえなくなっていた。
夜が明けようとしている。全てが終わった現在、倖枝はとても長い夜だったと感じた。
きっと、あの時から――バーでこの少女と出会った時から『夜』は始まっていたのだろうと思った。
「ロジーナ・レッカーマウル」
倖枝は舞夜の頬に触れた。
もしも、この魔女と出会っていなければ――そうだったとしても、いずれ同じ結果にたどり着いていたと思う。むしろ、万全の状態で結末を迎えられた点には感謝している。
それでも、この魔女が家族を欲するために目論んでいたことは事実だ。少なからず、巻き込まれていた。
「あんたは、ふたりを捕らえられなかった」
倖枝は責任を押し付けるかのように、嘲笑った。
「……倖枝さんは、あの童話の結末を知っていますか?」
しかし、舞夜は動じなかった。
「魔女をやっつけて、家に帰ったんじゃないの?」
幼い頃に読み聞かせられたその童話を、倖枝はうろ覚えだった。
「まだ続きがあるんですよ。兄妹が家に帰ると、お母さんが死んでいました――どうしてか、わかりますか?」
舞夜が、頬から倖枝の手を退けた。
「食糧難の飢えから、兄妹ふたりを森に捨てたお母さん――その影が、魔女の正体だったからです」
窓から僅かに差し込む朝陽が、憐れむ舞夜の表情を照らした。
「確かに、最初はわたしでした……。でも、この
倖枝は、藍色の瞳に自分の顔が映っているのが見えた。
引きつった笑みを浮かべていた――まるで、愚かさを自嘲するように。
(第43章『魔女は暁に笑う』 完)
次回 第44章『ブルームーン』
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