第44章『ブルームーン』

第118話

 十九年前。

 嬉野倖枝は高校入学後すぐ妊娠し、退学した。

 周囲は、中絶という選択肢を勧めた。それを選んでいれば『高校生』は続けられただろう。だが、倖枝は腹の中に居る実感すら無い我が子を殺すという行為を否定した。

 子供ながらの正義感だった。だから、己の決断に『父親』を巻き込まなかった。片親として産み、育てることにした。


 現在になって思えば――つわり以外に身体の変化が無いこの時期、覚悟が全く足りなかった。いや、命を扱うということを、倖枝は深く理解していなかった。自分の人生はまだ何とかなると、甘い考えすらあった。

 次第に、腹が大きくなった。自分の身体の中に『自分以外の何か』が居る感覚を常に味わうことになる。

 倖枝は恐怖に襲われた。身体の不快感と――そして、親子ふたりの未来に。

 ようやく事の重大さを理解するが、腹の中に居るのが娘であると明確になった頃には、既に手遅れだった。

 堕ろさなかったことを後悔した。何かの拍子で流産することを、一度は願った。

 だが、まだ残っていた正義感は、自らの身体を徹底的に労った。


 その結果、母子共に健康のまま時間は流れ、倖枝は娘を産み落とした。

 分娩台で、助産師から娘を見せられた。

 羊水にまみれた小さなそれは、頭が大きく全身が赤みを帯びながらも、人の形をしていた。目は開けられず、初めての呼吸――生きるための行為に、産声をあげていた。

 こんなものが腹の中に居たのだと思うと同時、倖枝は自然と涙が流れた。これまでの身体の辛さと、新しい生命との対面に、感動した。

 そして、絶望感が込み上げていた。

 それでも、十七歳の倖枝は、母親として初めての務めを果たさなければならなかった。


「さゆき……」


 事前に考えていた名前を呼ぶことで、個を定義したのであった。

 咲幸と呼ばれたそれは、泣き喚きながらも、とても小さな手で倖枝の手指に触れた。応えてくれたように、倖枝は感じた。


 産後五日を病院で過ごし、倖枝は咲幸と共に帰宅した。

 両親が準備した環境で、咲幸を育てた。泣くにしろ泣かないにしろ、ひと時も目を離せなかった。


「さっちゃん……あんた、よく飲むね」


 腹を空かせた咲幸が、乳首にがっついていた。

 倖枝の母親が粉ミルクを溶かした哺乳瓶を持ち、倖枝の元に現れた。


「孫もさっちゃんって……私は倖枝のこと、どう呼べばいいのよ?」

「今みたいに、もう名前の呼び捨てでいいよ。これからは、咲幸のことさっちゃんって呼んであげて」


 倖枝は咲幸という名前を決めた後、頭文字が自分と重なっていることに気づいた。偶然だった。

 これまで自分が母親から『さっちゃん』と呼ばれていた。次は自分の子をそう呼ぶのだと、名付けの頃からわかっていた。


「ていうか、倖枝だの咲幸だの……私にしてみれば、ややこしいったらありゃしない。あんた、名前決めるの下手ねぇ」

「もうっ、ほっといてよ。出生届出したんだし、変えれないんだからさ」


 確かに、名前の響きが似ていると倖枝も感じていたが、変更はしなかった。

 それに、結果的に『さっちゃん』と呼ばれることになって良かったと思う。

 咲幸を親身にあやせるのは現在だけだと、倖枝は把握していた。

 保育所には生後三ヶ月から預けられる。保育所と両親を軸に、咲幸の面倒を見て貰うつもりだった。

 自分はすぐにでも働いて、咲幸を食べさせるために金銭を稼がなければならない。たとえ、母としての愛情が不足するとしても――親としての責任を果たさなければならないのだ。


「この家の娘はさっちゃんでいいじゃん……」


 倖枝の母には、咲幸を孫ではなく子供のように扱って欲しかった。だから、呼び名をそのまま使えるならば、そのような愛着が湧くかもしれないと思った。

 倖枝は、母親から名前の呼び捨てで構わなかった。もう、ちゃん付けで呼ばれるのは恥ずかしい年齢や立場だ。

 そして、自分が『さっちゃん』である――自分が主役の人生ものがたりは完結したのだ。これからの主役は咲幸であり、自分は脇役に徹しなければならない。

 倖枝は、哺乳瓶の乳首を咥えている咲幸に微笑みかけた。これからきっと、辛い出来事が待っているだろう。申し訳ない気持ちになる。

 だが、それを知らない無垢な赤子は、無心に乳首を吸い続けていた。



   *



 三月二十一日、木曜日。

 倖枝は舞夜を自動車で館に送り届けた後、そのまま午前九時半に出勤した。

 そして午後八時半、無事に仕事を終えた。

 意外にも仕事に支障は無かった。昨晩は全て自分の思うように事が運び、想定通りの結末を迎えたからである。

 覚悟は出来ていた。気持ちの準備は万全だった。

 事前にわかっていたとはいえ――それでも、心の痛みを耐えていた。


 店を閉めると、自動車でスーパーマーケットに向かった。調理器具と食材を購入した。

 それから倖枝は帰路を走るが――倖枝にとって現在の『自宅』は賃貸マンションではなく、購入した戸建て住宅だった。引き渡し後、初めて訪れた。

 分譲地は完売こそしたが、まだどれも工事中だった。倖枝の家も含め、一帯に人気は無く真っ暗だった。

 倖枝は玄関の自動灯をまだ設定していないため、携帯電話の灯りで照らしながら鍵穴を探した。カードキーの他、携帯電話のアプリでも錠の操作が出来るので、設定しようと思った。

 電気とガスの契約は済ませている。扉を開けると、玄関から順に灯りを点けた。

 玄関からリビングまで、咲幸を連れてきた時と何ら変わっていなかった。モデルハウスとしての内装そのままだ。家具も含め家全体に、おそらく瑕疵けっかんは無いだろう。

 生活感溢れる、温かな空間だった。誰かの話し声でも聞こえてきそうだった。

 ――しかし、倖枝はこの家でひとりきりだった。


 ひとまずテレビを点け、静寂を誤魔化した。そして、着替えることなくキッチンに立つと、夕飯の支度に取り掛かった。

 作るものは、カレーライスだ。一枚の紙を――咲幸の手書きで調理法が事細かに記されているものを、キッチンカウンターに置いた。

 倖枝はその手順に沿って料理した。現在はまだぎこちないが、何度か作ると、きっと身体が覚えるだろう。

 始めてから約一時間、午後十時頃過ぎに完成した。白米はレトルトのものを電子レンジで温めた。

 椅子が四つあるダイニングテーブルで、倖枝はひとりでカレーライスを食べた。


「うん。美味しい」


 倖枝が幼少の頃より食べている『嬉野家』の味だった。無事に再現することが出来た。

 自身の母親が作ったものを長い時間、数多く食べている。だが、現在は『咲幸の味』という印象が強かった。

 倖枝は涙を流した。それでも、スプーンを動かす手は止めなかった。

 生きるために食べなければいけない――その一心だった。人生ものがたりを、まだ終えるわけにはいかないのだ。


「バカね……。こんなにも食べられないじゃない」


 食後、鍋に残った大量のカレーに、倖枝は泣きながらも苦笑した。

 咲幸の記した調理法に書かれてはいなかったが、四人前の量だった。いつもは母娘ふたりで二日かけて二度食べていたので、何らおかしくはなかった。

 明日も食べて、残りは冷凍保存することにした。

 片付けを終え、風呂が湧くまでの間、リビングのソファーに座り茶を飲んでいた。その頃には、涙が落ち着いていた。


 マンションの賃貸解約と引っ越しは、予定通り四月末から五月頭に行うつもりだった。それまでに必要なものは、咲幸と時間をずらして取りに戻るつもりであった。咲幸もまた、同様に準備と引っ越しをするようにと、それらの旨を記した紙をマンションのリビングに置いてある。

 現在はいわば『猶予期間』だった。


 倖枝は今日からひとまず新生活を始め、居心地の良いこの空間に――家ではなく、墓を購入したような気分だった。

 この広い家に、死ぬまでひとりで住み続けなければならない。そして、死後は咲幸への遺産となる。

 不安は無かった。在るのは絶望感だけだ。どれだけ辛くとも、立ち止まることは許されない。この孤独にも慣れないといけない。

 自分が決めたことなのだから、最後まで貫き通す。改めて、決意した。

 母親も含め周囲の知人には、大喧嘩から咲幸と絶縁したことを、隠すことなく話そうと思った。


 その後、倖枝は風呂で身体を温め、二階へと上がった。三室ある内、六畳のもの――最も狭い部屋を自室にした。

 ベッドに入るが、枕が硬く合わなかった。明日の仕事帰りに柔らかいものを購入しようと思った。

 風呂もベッドも、どちらかというと窮屈で嫌だったのに――咲幸と一緒だった時の感覚を嫌でも思い出していた。

 それは寂しさを掻き立てるが、時間と共に忘れることを願った。いや、忘れなければいけないのだ。


「さっちゃん……」


 しかし、狭くて広い部屋にひとりきりで、咲幸のことが頭に浮かんだ。

 会いたいという気持ちは無かった。涙は流さなかった。

 現在、どこに居るだろうか。どうしているだろうか。元気でやっているだろうか。

 ただ、娘の身を案じながら――新生活初日の夜は更けていった。

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