第119話
あの夜以降、倖枝は咲幸と顔を合わせることが無かった。携帯電話で連絡を取ることも無かった。
咲幸からの接触も無かった。
倖枝が夜間にマンションへと入ると、自分以外の誰かが出入りした形跡があった。
引っ越しを促すことを記したリビングの置き手紙に、きっと咲幸は目を通しているだろう。
いつ、咲幸の部屋の家具が消えてもおかしくない状況だった。約一年半という短い時間だが、ここでのふたりの暮らしが終わろうとしている。
倖枝は、それを覚悟する一方で――母親として最後の責任を果たさなければならなかった。
三月二十三日、土曜日。
午後八時半、倖枝は仕事を終えると、店の近くにあるファミリーレストランへと向かった。
混んでいる店内のテーブルに、ショートボブの女性がひとりで不機嫌そうに座っていた。ドリンクバーのみを注文したのだろうか。ホットコーヒだけがテーブルに置かれていた。
倖枝が彼女を見たのは、卒業式以来であった。現在は髪をブラウンに染めているが、まだ子供っぽい印象が拭えなかった。
「悪かったわね、呼び出して」
「そうですよ……。わざわざバイト休んだんですから」
繁忙日なのに、と――風見波瑠は付け足した。
居酒屋でアルバイトをしていると、倖枝は咲幸から聞いたことを思い出した。
しかし、波瑠が不機嫌なのはそれだけの理由ではないと、わかっていた。
「安心なさい。あんたとは、もう会わないわ。これっきりよ」
倖枝は波瑠の正面に座った。自分のドリンクバーを注文して店員を下がらせるが、席を立たないまま波瑠と向き合った。
舐められるような態度を取られ、やはりこの女は存在自体が不快だった。いや、それはお互い様だと思う。
倖枝は今日が最後だと割り切り、我慢した。
「……咲幸と、ルームシェアするのね?」
「ええ。大変でしたよ。慌てて
おそらく、ひとり暮らしのために用意していた部屋のことだろう。契約を済ませていたのなら、申込金は手付金へと変わるため、契約破棄と共に手付金も手放すことになる。悪いことをしたと、倖枝は少しの罪悪感を持った。
――咲幸が現在、波瑠の元に居るのか訊ねなかった。
だが、波瑠の回答から居るのだと理解した。
波瑠と咲幸、ふたりで暮らして大学生生活を送るための
「ちゃんと、家賃は折半すること。返ってこなかった申込金も、ここから出して貰いなさい」
倖枝は、キャッシュカードを挟んだ都市銀行の通帳と銀行印を鞄から取り出し、テーブルに置いた。
「手切れ金、三千万あるわ――咲幸に渡してちょうだい。残り三年分の学費と四年分の家賃と生活費を抜いても、お釣りくるでしょ?」
今日はこのために、波瑠を呼び出したのだ。
家を購入後、倖枝の貯金残高は約五千万円だった。そこからさらに、半分以上を咲幸に譲渡する。
いや、厳密には譲渡にあたらない。『もしもの時』を考え、過去から咲幸名義の口座に貯金していた分が、その金額だった。絶縁した以上、勿体ぶることなくそのまま差し出したまでだ。
母親として娘の大学卒業を見届けることは出来ない。だから、代わりにこのようなかたちで最後の責任を果たした。大学卒業後、自力で稼いで生活を送れるまでの『繋ぎ』としては充分だろう。
「おばさん……本気なんですか? 冗談ですよね?」
波瑠が小さく苦笑しながら、テーブルに視線を落とした。金額だけでなく、手切れ金を渡すという行為に、白けるほど驚いているようだった。
もしかすれば、この絶縁を咲幸もまだ冗談のように捉えているのだろうか――倖枝に疑問が浮かぶか、それはあり得ないと否定した。波瑠はあくまで、部外者としてそう願っているまでだ。
「私はね、咲幸じゃなくて舞夜ちゃんを選んだわ。……咲幸はもう、邪魔なのよ」
倖枝は不敵な笑みを作って見せた。
波瑠にも『真意』を話せない。咲幸への同じ体裁を取り繕わなければならなかった。
「だいたい、波瑠ちゃんも言ってたじゃない。咲幸のマザコンが度を過ぎてるって」
「確かに言いましたけど、程よく距離を取って欲しかっただけです! 勘当は無いでしょ!? やりすぎですよ!」
咲幸を想い異議を唱える波瑠が、倖枝は嬉しかった。
「うるさいわねぇ……。あんたの望み通り、咲幸と同棲出来るんだから、それでいいじゃない。何が不満なのよ?」
だが、安心して咲幸を預けるため、さらに確かめたかった。
「それとも、あんたの覚悟って、その程度だったの? 何も、咲幸のためにお金を稼げって言ってるんじゃない。お金なら咲幸に握らせるわ。だから、私なんて居なくても――あんたひとりで咲幸を幸せにしてみなさいよ!」
いや、憎まれ役として、この女を奮い立たせようとした。
波瑠は奥歯を噛みしめるような表情で、倖枝を睨んだ。肩が震えていた。
「月城を選んだって……おばさん、嘘つくの下手すぎですよ……」
俯いて、ぽつりと漏らしたその声は――涙声だった。小さく鼻をすすりながら、指で目尻を拭っていた。
やはり勘の良い女だと、倖枝は思った。『真意』を全て見透かされてたと悟った。
誰かに理解された現在、倖枝も泣き出したい気持ちだった。しかし、我慢した。
「いい? あんたが咲幸の側について、必ず卒業させなさい。約束できる?」
波瑠は俯いたまま少しの間を置き、小さく頷いた。
それを確かめると、倖枝は銀行通帳と銀行印を改めて差し出した。
「咲幸がどれだけ頑固でも、このお金は絶対に使わせて。奨学金とか無茶なバイトとか、許さないからね」
波瑠は手を伸ばし、自分の元に引き寄せた。
この女が店を出た後に行方を眩ませる可能性を、倖枝は考えなかった。大金を預けられるほど、信頼していた。
「それと――現在のあんたの推察は、咲幸に言わないで。もし咲幸がそう考えそうになったら、違うって言って。私は舞夜ちゃんを選んだのよ。わかったわね?」
その頼み事に、波瑠は顔を上げた。まだ、静かに涙を流していた。
「構いませんけど……それで咲幸は、幸せになれるんですか? 咲幸が欲しいもの、わかってますか?」
波瑠から真っ直ぐな瞳を向けられ、倖枝は一度、視線を外した。
だが、改めて正面を見た。
「あの子はもう、天涯孤独の身よ。さっきも言った通り――私じゃなくて、あんたが咲幸を幸せにするの」
実に勝手で無責任なことを頼んでいると、自覚していた。このような面倒事、たとえ断られても文句が言えなかった。
咲幸が自身の家庭を持つという倖枝の願いを、波瑠本人には叶えられない。しかし、自分と同じ志を波瑠が持っていると、倖枝は以前から感じていた。親友として咲幸のことを第一に考えているからこそ、彼女に託した。
「悪いけど……こういうこと頼めるの、あんたしか居ないから……。娘を、よろしくお願いします」
だから――倖枝はテーブル越しに、波瑠に深々と頭を下げた。
恥も無ければ、屈辱感も無かった。咲幸のため、純粋に懇願したまでだ。
正面に座っている人物が席を立ち上がり、この場を離れたのを感じた。
倖枝は顔を上げると、テーブルに銀行通帳と銀行印は無かった。そして、店の出入り口に向かう波瑠の姿が見えた。
その背中はか弱いが、とても逞しかった。
無言で立ち去る波瑠を見送った。きっと最後の頼み事を聞き入れてくれたと、倖枝は思った。
最後までいけ好かない小娘だった。その印象とは裏腹に、倖枝の気分はどこかすっきりしていた。今日も不快な気分で別れるはずだったので、意外だった。
波瑠に、この想いを託した。
充分な手切れ金を預けたとはいえ、咲幸はこの先、辛い道を歩くことになるだろう。それでも、波瑠が側に居る限り、ふたりなら安心だった。きっと乗り越えられると、信じた。
娘が自分以外の誰かに愛されていることが不快な時期もあったが、現在の倖枝は嬉しかった。
ルームシェアの提案を持ちかけたことにも、波瑠に感謝した。それを事前に知っていたからこそ、計画に組み込めたのであった。
ひとり取り残された倖枝は、ふたりの行く先に明るい未来が待っていることを――そして、自分の存在がふたりの記憶から薄れることを、祈った。
騒がしい店内で、少しだけ涙が溢れた。
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