第053話(後)
咲幸と共に教室に入った。
広い教室では、前方の生徒用机四つがひとつのテーブルとして合わさっていた。そこに、担任教師と向き合うように咲幸と並んで座った。冷房が効いているため快適だが、倖枝は落ち着くと同時に緊張感が込み上げた。
「本日はお忙しいところ、ありがとうございます。私、咲幸さんの担任の――」
明るく落ち着いた雰囲気の担任教師が、名乗った。倖枝の目には、三十歳前後に見えた。
電話で話したことは何度かあったが、こうして顔を見るのは初めてだった。おそらく、自分より若いから――きっと仕事が大変で苦労しているのだろうと、倖枝は心中で同情した。
「いつも娘がお世話になっています」
「いえいえ。後で話しますけど、咲幸さんは本当に良い子で――それでは、面談の方を進めさせて頂きます」
倖枝は咲幸を横目で見ると、得意げに笑っていた。
担任は机の天板下の物入れから、紙を一枚差し出した。一学期の中間試験と期末試験の結果の他、咲幸が先月受験した全国模擬試験の結果も記されていた。
倖枝は全ての結果を、咲幸から知らされていた。
「第一志望校は、こちらで間違いないでしょうか?」
「うん!」
模擬試験の結果で、得点や偏差値の他――印字されている第一志望の学校名と学部は、咲幸が以前より口にしているものだった。咲幸は大きく頷いた。
「はい。私としても、ここに行かせたいと考えています。間違いありません」
「母娘の相違が無いということで――この調子なら決して無謀ではなく、現実的な感じだと私は思います」
第一志望校の結果は合格率六割から七割、合格可能圏内を意味するB判定であった。
倖枝は自宅でそれを知った時、不安はまだ残るが、ひとまず安心していた。
「あくまでも、六月時点での学力ですからね。特にこれから、夏休みで周りのレベルも底上げされますので、相対的に変動する可能性は充分にあります。気を緩めずに……というか、A判定を目指すつもりで頑張ってください」
担任としても仕事上、合格を保証できないのだと倖枝は理解していた。危機感を煽るしか無いことにも、その当たり障りのない内容にも、納得した。
「そうだって、さっちゃん。この調子で頑張ろうね」
「そう言われてもねぇ……。これからインハイあるよ?」
「それ終わってからでいいから、勉強に集中してね!」
確かに、受験生にとって大切な時期に開催されると倖枝は思っていたが、夏休みに入ってすぐなのが幸いだった。インターハイがどのような結果であれ、残りの夏休みは他の受験生と同様、勉強に専念できる。これまでと違い、部活動を言い訳には出来ない。
「その部活ですけど、凄い成績を残されていますね。そこで、ひとつの提案なのですが……推薦入試という選択肢もあります」
推薦入試。まさかこの場でその提案をされると思っていなかったので、倖枝は静かに驚いた。
「それは、インハイで結果を残せたらということですか? というか、推薦は一度蹴ってるんですが……」
だが、過ぎた話であった。咲幸の望む大学や学部ではないというのに、蒸し返されることに戸惑った。
そんな倖枝に、担任は微笑んだ。
「いえ、スポーツ推薦というわけではなくて……咲幸さんの内申だと、志望校の推薦入試が可能です。もっとも、必ず受かるというわけではないですが」
指定校推薦という制度のことだろうか――倖枝は、独自に仕入れた大学受験の知識を掘り起こした。
倖枝の中での推薦入試とは、もっぱら体育大学へのスポーツ推薦のことだった。指定校推薦を調べた時から、優秀な生徒に与えられる特別枠という印象が根付いていた。
「え……推薦を受けられるほどなんですか?」
まさか娘が、それに選ばれると思いもしなかったのだ。無縁だと思っていたのだ。
大学受験を抜きにして、倖枝は素直に嬉しかった。喜びを噛み締めながら――隣に娘本人がいるにも関わらず、倖枝は確かめるように訊ねた。
咲幸から、半眼の視線を向けられた。
「校内試験は確かにギリギリですが、部活動の実績が努力という意味で大きいです。他には、部活の遠征を除いて皆勤ですし……私の目から、何事にも積極的に取り組む姿勢と、困ってる子を助ける人柄は評価できます」
倖枝は左手の手のひらを担任に向け、右手で目頭を押さえて俯いた。
娘の評価としては、これ以上ない内容だった。しかも、担任教師という信頼に足る人物から聞かされ、涙が溢れそうになった。流石に恥ずかしいため、必死に我慢したが。
「ちょっと、ママ――恥ずかしいよ」
「私は、さっちゃんがそんな格好してる方が恥ずかしわよ」
「えっ、今さら?」
倖枝は俯いたまま、咲幸に先程からの本音を話した。お陰で感情が落ち着き、涙が引っ込んだ。
その様子を伺ってか、担任の苦笑する声が聞こえた。
「それで、どうなさいますか? 今日のところは一旦、お持ち帰りになられますか?」
担任からそう訊ねられるも、倖枝は返事を改めて考えるまでも無かった。きっと咲幸も同じだと、確信した。
顔を上げながら答えた。
「そりゃ、もちろん――」
「辞退します」
倖枝は頷こうとしたところ、咲幸の返事に思わず声すらも止まった。
隣の咲幸と、顔を見合わせた。咲幸は至って冷静な表情を浮かべているため、返事の意図がますます理解できなかった。何か悲壮な理由ではないようだった。
「ちょっと待って……さっちゃん、どういうこと?」
「だから、これからインハイあるんだよ? ただでさえ勉強遅れてるのに、小論文や面接の準備して――もし推薦がダメだったら、本当に洒落になんないよ。悪いように考えて動かないと」
意外と冷静なのだと、倖枝は思った。とても納得のいく内容だった。
いや――この可能性を示唆するのは、本来は保護者の役目なのだ。もしも、咲幸まで感情的になり、勢いで頷いていたのならと考えると、血の気が引いた。
冷静さに欠き可能性を想像できなかった点が、倖枝は恥ずかしくもあり、情けなかった。
「申し訳ありませんでした。咲幸さんの実情を深く考えず、軽率に提案してしまい……。確かに、咲幸さんの仰る通りです」
それは担任も同じのようで、ばつが悪そうに頭を下げられた。
倖枝は怒りの感情が込み上げたが、自分も同罪なのでそれをぶつける資格が無かった。咲幸本人が止めてくれて良かったと、思うばかりだった。
「というわけだから、地道に受験勉強頑張るよ」
咲幸はふたりに対し、明るい笑顔で頷いた。
目の前に餌を差し出され、一番辛い思いをしているのは、きっと咲幸本人だろう。それでも、残念がる様子を見せず、倖枝は強い子だと思った。
「はい。もうすぐ夏休みを迎えるわけですから、計画を立ててしっかりと取り組みましょう。お母さんも、応援してあげてください」
担任からそのように言われ、倖枝は力強く頷いた。
その後――模擬試験や校内試験の結果から分かっていたことだが、咲幸が外国語の教科が不得意であることを指摘された。夏休みはそれを克服するよう指導され、面談を終えた。
担任教師から見送られ、倖枝は咲幸と共に教室を出た。次の順番で待っている母娘に会釈した。
隣の教室からは、舞人の声が聞こえた。言葉の内容までは分からなかったが、まだ面談が続いているようだった。倖枝は今日はもう舞人の顔を見たくなかったので、早足で廊下を歩いた。
階段に差し掛かった時、咲幸の頭を撫でた。髪は汗でべたべたしていたが、不快な感触ではなかった。
「凄いじゃない、さっちゃん。母さん、超嬉しいわよ」
倖枝は三者面談にあたり緊張していたが、担任教師から悪く言われることを内心覚悟していた。
しかし、想像も出来なかったほど娘を褒められ、最高の好感触を得た。推薦入試に選ばれるほどの『優等生』であると、鼻が高かった。寧々や夢子に自慢したかった。
「恥ずかしいよ……」
咲幸は照れ笑いを浮かべた。
面談の時はしっかり者だと思わせたが、現在は幼い子供のように倖枝は見えた。
「去年の三者面談、覚えてる? 授業中によく居眠りしてるって、怒られたのよ?」
二年生の三者面談ではそのように注意を受け、恥ずかしい思いをしたことを、倖枝は現在でも覚えていた。それがあったからこそ、今回も身構えていたのだ。
「もう……。そんな昔のこと、忘れようよ……」
「ううん。たぶん、母さん一生忘れないわよ」
悔しいからではない。成長の記録として、良い思い出として、これからも記憶に残り続けるだろうと、倖枝は思った。
前回の帰り際は、こうして階段を下りながら、咲幸に少し叱った――それは倖枝にとって、悪い思い出だった。
その記憶も蘇るが、倖枝は目を背けた。纏わりつくものを振りほどくように、咲幸の頭を撫でた。
「それじゃあ、部活に戻るから……いつもの時間に帰るね」
「わかったわ。今日は母さん、ごちそう用意するわよ。何か食べたいものある?」
「うーん、それじゃあ――」
咲幸の口から出たものは、市販の中でも高級なものに分類されるアイスクリームだった。
倖枝は夕飯の料理名を期待したが、こう暑いとそれを食べたいと思うのは理解できた。帰路でスーパーマーケットに寄り、惣菜と共に購入しようと思った。
「気をつけて帰ってらっしゃい」
校舎を出ると、運動場に戻る咲幸と別れ、倖枝はコインパーキングに向かった。
時刻は午後五時半。まだ空は明るく、そして自動車の中は外気以上に蒸し暑かった。
自動車のエンジンと共に冷房を動かし、車外で加熱式タバコを一本吸った。吸い終えて運転席に座ると、蒸し暑さは若干和らいでいた。冷房のうるさい音が耳障りだが、発車させた。
ひとりになったから――倖枝は喜んでいた気持ちが下がると共に、暗い気持ちが込み上げてきた。昨年のことを思い出したからでもある。
咲幸が推薦入試を受けられるまで育ったことに、自分の育成は関係していない。これまでろくに育成を行こなっていないのだから、間違いない。
倖枝にその現実が突きつけられた。自慢の娘だと誇りに思うのは、おこがましいのだ。
きっと、咲幸の親権者にあたる、倖枝の両親の育成が良かった。そして、咲幸が大人びたしっかり者だと倖枝は以前から感じていたが――母親が頼りないからこそ、自ずとそう成った可能性は充分にあり得る。
だから、倖枝は内申について素直に喜べなかった。その資格が無かった。
昨年、三者面談の帰り際に叱ったこともそうだった。
自分には娘を叱る資格など無いのだと、倖枝は現在でも思う。
娘が授業中に寝ていた? それならば、自分は高校で何をしていた?
授業を受けてすらいない。高校を卒業すらしていない。
そして、大学受験を一切経験していない身で、とやかく口を挟んでもいいのだろうか。
倖枝は改めて、自身がとても小さな存在だと感じた。
それでも――娘が自分のようになって欲しくないと願うことには、誰の許しも要らないのだ。
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