第21章『進路』

第053話(前)

 七月十九日、水曜日。

 HF不動産販売の定休日は、倖枝が以前勤めていた会社と同じく、火曜日と水曜日であった。集客を狙うのであれば、他店と重ならないようにすればいい。しかし、他店とのやり取りが行えなければ本末転倒なので、一般的な不動産屋の定休日に合わせるかたちとなった。


 倖枝は休日なのにも関わらず、午後三時過ぎにシャワーを浴び、スーツに着替えた。そして、午後四時になると自動車で咲幸の学校へと向かった。

 今日は咲幸の三者面談がある。

 ここ最近、倖枝は仕事が忙しく余裕が無かったが、大切な行事の直前になり緊張した。娘の進路について改めて向き合うのだと思いながら、自動車を運転した。

 学校近くのコインパーキングに駐車し、校門をくぐった。

 倖枝が学校を訪れたのは、昨年の文化祭以来であった。現在は放課後で、生徒の数が疎らだった。それだけではなく、緊張感から以前ほど憂鬱ではなかった。

 部活動の生徒達の声を聞きながら、倖枝は校舎三階にある咲幸の教室へと向かった。教室は冷房が効いているだろうが、校舎のそれ以外は蒸し暑い。階段を昇ると、首筋から汗がにじみ出た。

 階段を昇りきり廊下を歩くと、知っている顔が見えた。


「げ――」


 倖枝はつい、小声が漏れた。

 立ち止まりはしないが、歩く速度が遅くなった。露骨に嫌な表情を浮かべている自覚があったので、強引に笑顔を作り、元の速度で歩いた。


「月城様、こんにちは。お世話になっております」


 咲幸の隣の教室――廊下に置かれた椅子に月城舞夜とスーツ姿の舞人、ふたりの父娘が座っていた。

 倖枝にとってふたりは顧客と取引先であるため、つい『様付け』の呼称を使用した。仕事以外で顔を合わせたのだから『さん付け』で良かったのかなと、後で思う。しかし、どの道ふたりには頭が上がらないので、倖枝は間違いが無かったとひとり納得した。


「これはこれは、嬉野さん! こんな所で会うなんて、奇遇ですね!」


 ふたりは立ち上がると、舞人が嬉しそうに声を上げた。その隣で、舞夜が微笑みと共に会釈した。


「月城様も、今からですか?」

「そうなんですよ。今日ぐらいしか、休みが取れなくて」

「私も、今日が定休日やすみですので」


 三者面談は、保護者が事前に日時を予約するかたちとなっている。クラスは違えど、同じ時間帯の枠を確保したのだと、倖枝は理解した。

 月城住建の休日を知らないが、建築業も不動産業と同じく水曜日が定休日でも不思議ではない。こうして日時が重なったのは、理由があっての偶然だと考えられる。

 しかし、倖枝は月城側が意図的に重ねてきたのかもしれないと、疑った。こちらの日時を学校側から聞き出し合わせるのは、月城には造作も無いことだろう――そのような陰謀を想像すると、自分が危ない人間だと思えてきて、深く考えるのはやめた。


「お恥ずかしい話ですが……僕はこの学校に来るの、入学式以来なんですよ。教室がどこにあるのか、迷っちゃいました」

「この学校、広いですからね。迷われるのは、私もわかります」


 ハハハと、舞人が笑った。

 自虐のつもりだろうが、自分も誇れるほど来ていないので、倖枝は笑えなかった。

 この男はきっと、過去の三者面談は秘書や家庭教師等――別の者を代理で行かせていたのだろう。最後だけ姿を現したのは、やはり娘の大事な話だという自覚があってのことだろうか。

 倖枝は、他の保護者との繋がりが無かった。三者面談の待ち時間にこうして立ち話をするのは、初めてだった。

 それに憧れていたわけではない。むしろ、嫌な相手であるために居心地が悪かった。


「娘様は頭がよろしいですから、さぞ良い大学に行かれるんでしょうね」


 だから、そのような皮肉を漏らしてしまった。舞夜が咲幸とさほど学力が変わらないことも、舞夜のおよその進路も、倖枝は知っていた。


「いえいえ……。頭は良いのに、勉強が出来ませんからねぇ。希望通りの大学に行けるのか不安ですよ。というか、卒業するのに出席日数が足りているのか心配です」


 舞人は苦笑しながら、謙遜気味に答えた。

 やはり、親であるからか――娘を的確に評価していると、倖枝は思った。こちらの安い煽りには乗ってこなかった。

 それよりも、舞人の隣では舞夜が大人しく微笑んでいた。チラチラと、細やかな視線を送られた。彼女をこのような出しに使用したことを、倖枝は現在になって後悔した。


「それにしても、暑いですね。運動している子達が倒れないか、心配になりますよ」


 舞人は廊下の窓から、運動場を見下ろした。

 倖枝も追うと、生徒達がそれぞれの部活動に汗を流しながら励んでいた。各々が水分補給を行っているだろうが、確かに脱水症状を心配する光景だった。

 その中で、直線トラックを走っている長身のショートボブ――風見波瑠の姿があった。


「咲幸さんの姿が無いので、そろそろ来ると思います」


 舞夜の言う通り、陸上部の集まりで咲幸の姿が無かった。不安だったが、面談の時間を忘れていないようだった。


「おや。娘さん、運動部なのですか?」

「はい。陸上部です」

「凄いんですよ、お父様。インターハイ行けるんですから」

「ほぉ……。それは大したものですね」


 まるで自分のことのように、舞夜が自慢げに話した。

 五月に行われた高校総合体育大会インターハイの地区大会で、咲幸は全国区進出の成績を残した。その結果に、倖枝は喜ぶよりも――


「私としては、早いところ受験勉強に集中して欲しいところですけど……こうなれば、最後まで見届けようとは思います」


 それは倖枝の、紛れもない本心だった。

 三年生は地区大会で敗れた時点で、部活動を引退する決まりになっていた。倖枝は当時、内心でそれを望んだが、期待に反し現在に至る。咲幸本人は、全国本戦が終われば受験勉強に全力で取り組むと言っているので、それを信じるしかなかった。


「あっ、ママ来てた。……舞夜ちゃんも居るじゃん」


 咲幸の声が背後から聞こえて、倖枝は振り返るが――ランニングシャツとランニングパンツ姿の咲幸に、唖然とした。髪はポニーテールに結んでいた。顔は汗まみれで、首にはタオルを下げ、手にはスポーツボトルを持っていた。

 大事な行事だというのに、いかにも部活動から少し抜け出してきた、といった様子だった。


「ちょっと、さっちゃん! シャワー浴びて制服に着替えてらっしゃいよ!」


 公然であるため倖枝は小声で叱るが、もう遅い。早めに部活動を切り上げ、準備をしているものだと思っていた。

 昨年は慌てて着崩すも、一応は学生服姿で現れた――それでも倖枝は恥ずかしかったが。


「えー。どうせまた戻るんだし、これでいいじゃん。先生だって、気にしないよ」

「大事な話の時は、身なりをキチンとするものなのよ!」


 倖枝は自分が営業職であるため、その点には強いこだわりがあった。もしもこれが商談ならば、始まる前に先方は帰るだろう。

 確かに、担任教師とはまだ内輪の関係と言える。しかし、娘には社会に於ける最低限の行儀を学んで欲しかった。

 いや――担任教師もだが、偶然にも現在が月城父娘の前であるため、倖枝は特に恥ずかしかった。


「あれ? その人は……」


 ここに来る際、三人で話しているのが見えたのだろう。倖枝の話し相手であり舞夜の付き人である男性を、咲幸は物珍しそうに眺めた。


「ほら、さっちゃん。こちら、舞夜ちゃんのお父さんよ――これが娘の咲幸です」


 倖枝は双方を紹介した後、咲幸と一緒に頭を下げた。


「こ、こんにちは。はじめまして」

「可愛らしい娘さんですね」


 咲幸のだらしない格好にも関わらず、舞人はやはりにこやかだった。

 舞人にその気は無いだろうが――肩と太ももを大胆に露出した娘の姿を男性に見せるのは、倖枝は嫌だった。一歩踏み出し、咲幸を背後に隠した。


「舞夜ちゃんも今から?」

「ええ、そうよ。偶然ね」

「そっか。お互い、怒られなかったらいいね」


 しかし、咲幸は再び前に出ると、舞夜と談笑を始めた。

 母の気も知らないで無防備であることに、倖枝は呆れた。女子校に通っているせいかもしれないが、帰宅後にしっかりと説こうと思った。

 ふと、咲幸の教室の扉が開き、一組の母娘が退室した。それに続き、担任教師と思われる女性が現れ、廊下を見渡した。


「嬉野さん、いらっしゃいますか?」


 自分達の順番が訪れたと同時、ようやくこの空間から開放されると、倖枝は安堵した。


「舞夜ちゃん、また明日ね」

「それでは、失礼します」


 咲幸が舞夜に手を振ると、倖枝も舞人に頭を下げた。

 この四人で居たからか、倖枝は舞夜の後見人だという実感がさらに湧かなかった。やはり親代わりではないのだと、改めて思った。

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