第052話

 倖枝は月城舞人から開放された後、急いで舞夜から預かった中古物件を流通機構に登録した。

 そして、陽が暮れると少し早いが店を閉じ、従業員総出でチラシ配りに出かけた。それぞれが、分担した住宅地に撒いた。

 倖枝は割当をこなすと、午後十時頃、そのまま直帰した。咲幸にアルバイト代を支払い、夕飯と風呂を済ませた頃には、午後十一時半になっていた。

 念願の開店日だったが、意外な訪問客の相手と久々のチラシ配りで、疲労が重く伸し掛かった。

 倖枝は風呂上がりに、リビングのソファーで缶ビールを飲んでいた。弱った身体にアルコールがよく回り、凄まじい眠気に襲われた。


 うとうとしながらも、携帯電話で未成年後見人について調べた。『親権者に代わり、未成年者の監護養育、財産管理、契約等の法律行為を行う』と書かれていた。

 舞人からは、契約の同意だけで構わないと言われた。しかし、いざ後見人に選任された場合は――実際に立ち回らないにしろ、舞夜の監護養育を行える立場となる。

 血の繋がらない他人の娘への、親権に限りなく近いものが与えられるのだと、倖枝はぼんやりと理解した。

 脅迫じみた口約束から始まった『疑似母娘』の契約が、法的に認められようとしているのだ。

 ――踏み込んでいいのだろうか?

 舞夜のことは、かつては本当の娘のように思ったことがあった。その前例があるからこそ、形が固められることに躊躇した。

 あくまでも、一線を引こう。倖枝は、そう自分に言い聞かせた。


「あれ? ママ、まだ起きてたんだ?」


 ふと、咲幸が自室から姿を現した。

 勉強をしていたのだろう。空のグラスをキッチンカウンターに置くと、倖枝の隣に座った。


「さっちゃん、今日はありがとうね。助かったわ」

「いいよいいよ! ママのお店がオープンした記念日にちょっとでも関われて、サユも嬉しいから!」


 若く、かつ体力があるからだろうか。咲幸はクロスバイクでチラシを撒いたにも関わらず、元気そうだった。

 倖枝の肩に、咲幸がもたれ掛かった。倖枝は缶ビールを片手に咲幸の肩を抱き寄せ、頭を撫でた。


「今日ね……舞夜ちゃんのお父さんがお店に来て、大きな仕事くれたのよ。その代わり、舞夜ちゃんの後見人を引き受けることになっちゃった」


 酔っているせいで、倖枝は躊躇無く話せた。

 この件は、咲幸にも知って貰いたかった。舞人や裁判所等の部外者が関わっている以上、咲幸がそれ伝いで知る可能性は充分にある。ここで下手に隠すべきではないと、判断した。

 いや――倖枝としては、懺悔のつもりだった。


「後見人ってなに?」

「未成年は、不動産の売り買いが出来ないのよ。母さんが舞夜ちゃんのお父さんに代わって、契約書に同意のサインをするだけ。それが手っ取り早いってわけ」


 倖枝は敢えて『親権』という言葉を伏せて説明した。それは知られて欲しくなかった。


「なーんだ。いいんじゃない? 舞夜ちゃんのお母さん遠くに行っちゃったから、寂しいだろうし」


 とはいえ、大学受験生の娘はおよその意味合いを理解しているようだった。

 そのうえで同意を得られたことが、倖枝としては救われた。ひとりで深く考えて、思い詰めていたのかもしれない。

 倖枝は缶ビールを飲み干すと、アルコールの勢いを借り、咲幸を両腕で抱きしめた。


「母さん、さっちゃんのためにも頑張るからね……。さっちゃんは学費のことなんて心配しないで、行きたい大学のために勉強しなさい」


 新たな旅立ちに、不安が全く無いと言えば嘘になる。それでも――たとえどんな手段を用いることになろうとも、大切な存在だけは守りたかった。

 倖枝は小柄な身体からの温もりを感じると、疲れが一気に吹き飛んだような気がした。


「ありがとう、ママ。でも、浪人だけはしないからね」

「……そうしてくれると助かるわ」


 冗談を漏らした咲幸と、ふたりで笑った。

 自分の店で仕事をし、帰宅後は家族と触れ合う。このような充実した日がずっと続けばいいと、倖枝は願った。


「後見人だっけ? サユも、ママがそれだったらいいのにな」


 ぽつりと漏らした咲幸に、倖枝は首を傾げた。咲幸との戸籍上の関係をふと思い出すも――それでも理解できなかった。

 その時、咲幸から突拍子もなくキスをされた。唇同士が僅かな間、触れ合った。


「だって――倖枝がもしも他人だったら、我慢しなくていいんだもん」


 離れた咲幸の顔はどこか大人びた余裕を含み、微笑んでいた。


「もうっ、今でも我慢してないじゃない」


 倖枝は照れ隠しのつもりで、咲幸の頭をくしゃっと撫でた。

 娘の突然かつ大胆な行動に、胸の鼓動が高まっていた。混乱した頭は、咲幸から視線を外す信号を送ることで精一杯だった。


「せめて、本当の姉妹だったら良かったのにね」

「姉妹でも母娘でも、関係ないわよ……」


 血の繋がりが有る時点で、口付けはいけない行為なのだ。たとえ気持ちが揺れ動いても、決して掴んではいけないのだ。

 娘とのこのような行為で、以前より嫌悪感が湧かなかったから――倖枝はそう、自分に言い聞かせた。



   *



 六月二十八日、水曜日。

 あれからすぐに、月城父娘が未成年後見人の申し立てを行ったらしい。倖枝はこの日、家庭裁判所から呼び出された。

 裁判所側との面接は緊張したが、嘘をつくことなく、当たり障りのない回答をした。


 七月十四日、金曜日。

 倖枝は帰宅すると、裁判所より郵送された封筒を、咲幸から手渡された。

 中には、選任の審判書が入っていた。まだ事後の手続きは残っているが、これを受け取った時点で、倖枝は月城舞夜の未成年後見人へと就任したことになる。

 自分のような小さな人間が本当に選任されたのだと、倖枝は静かに驚いた。本来なら、きっとあり得ない事例だろう。

 月城舞人――あの飄々とした男が司法に介入出来るだけの権力を持っていることを、こうして実感した。

 こうして通達が届く前から、分譲地窓口の仕事を既に任されていた。嫌な男だが裏切ることなく、後見人の件と共に、このふたつは全力で取り組もうと思った。


 七月十五日、土曜日。

 倖枝は午後四時頃、舞夜の住む館へと向かった。使用人に案内され、リビングへと通された。


「今さらですけど、私を後見人にしようと考えたのは、どちらなんですか?」

「わたしと父のどっちも、ですよ。合理的じゃないですか」

「合理的ねぇ……」


 舞人と同じ言い分だった。

 倖枝はソファー下のラグマットに正座し、作成した売買契約書を鞄から取り出した。舞夜が以前買付を行った、上物付き土地のものだ。


「では、こちらにサインをお願いします」


 舞夜が記名押印を行った契約書を倖枝は受け取ると、その場で『未成年後見人 嬉野倖枝』と書き添えた。後見人としての権限を初めて行使した。後は代理人として、売主側の業者を介し締結すればいい。

 しかし、後見人としての実感はまるで無かった。仕事が進めやすいとしか思わなかった。


「まぁ。本当に母娘みたいですね」


 舞夜は使用人を追い払うと、倖枝をソファーの隣に座らせた。買主側に並んだ、ふたつの名前――たかが契約書かみきれを、目を輝かせて眺めていた。

 喜ぶ姿が幼い無邪気な子供のようで可愛く、倖枝は小さく微笑んだ。


「親権自体は無いわよ。舞夜がちゃんと成人になるよう育てる義務はあるらしいけどね」


 もっとも、それは舞人からの依頼の範疇外であるため、行使するつもりは無いが。

 単なる親代わりの『保護者』とは違い、後見人には法的な効力が伴う。それでも、親のようで親では無い。なんとも奇妙な関係だと倖枝は思うが、それは舞夜に対してだけでなく――


「ここだけの話ね……私には、さっちゃんの親権も無いのよ」


 咲幸に対しても同じだった。腹を痛めて産んだ実の娘に対しても、現在は親のようで親ではなかった。


「どういうことですか?」

「私のお父さん――さっちゃんのおじいちゃんが胃癌でもう助からないって分かった時、さっちゃんを養子にしたのよ。遺産の相続税対策でね。だから、さっちゃんの親権は私のお母さんに有るわけ」


 一般的な庶民家庭の場合、相続税をさほど気にすることは無い。祖父母が孫を養子縁組に迎え入れるのは、もっぱら富裕層の取る手段だ。

 倖枝の父親は『一般人』であったが、趣味で株式の売買を行っていた。結果的に、こうせざるを得ないほどの財産を所有していた。

 現在から二年前の話だった。


「つまり……私とさっちゃんは、戸籍上は義理の姉妹なのよ」


 普段の日常生活で、それを感じさせることは無い。周囲にも、姉妹ではなく母娘として知られている。

 しかし、もしも咲幸がこの年齢で不動産を売買する場合、法定代理人となるのは倖枝の母親になる。


「なるほど、そういうことでしたか……。そういえば、複雑な家庭だって言ってましたよね」

「え? 言ったっけ?」


 倖枝は記憶に無いが、舞夜が言うからには、そのように発言したことがあるのだろう。


「それでも、咲幸とはちゃんとした母娘に見えますよ。……咲幸が羨ましいぐらいです」


 血の繋がりがあるのに、法的には母娘ではなく『女』を求める咲幸。

 血の繋がりはないが、法的には母娘に近く『母』を求める舞夜。

 似ているようでまるで正反対のふたりだと、倖枝は理解した。そして、立場として娘に近いのは、咲幸ではなく舞夜なのだ。


「ありがとう。まあ、言いふらすほどではないけど、私が後見人になってあげたんだから感謝なさい」

「はい。とっても嬉しいです」

「とはいっても、あと三ヶ月だけどね。早く成人おとなになりなさいよ」

「えー。ずっと未成年こどもでいいです」


 倖枝の膝に寝転がり駄々をこねる舞夜に、倖枝は苦笑した。

 そう。後見人の任期は残り僅かだ。成人さえすれば、親権者の存在は不要となる。

 それは咲幸も同じであった。一月が誕生日なので、残り六ヶ月である。

 舞夜の後見人おやになったからであろう。咲幸がこのまま成人しても構わないが――咲幸の親権者おやに戻り、娘の成人を迎えたいと、この時の倖枝はぼんやりと思った。

 そして。


 森の館には、魔女が暮らしていた。

 ロジーナ・レッカーマウルと名乗った魔女は、ふたりの姉妹を狙っていた。


 構図としてはあの童話そっくりなのだと、倖枝は改めて思った。



(第20章『後見人』 完)


次回 第21章『進路』

倖枝は咲幸の三者面談に出席する。

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