第054話

 倖枝は、帰宅途中にスーパーマーケットに寄った。

 惣菜コーナーでパックに入った握り寿司と焼き鳥、そして咲幸から頼まれたアイスクリームを購入した。

 帰宅後すぐシャワーを浴び、気持ちを切り替えた。浮上した『弱さ』が消えて失くなったわけではないが、笑顔を作れるほどには回復した。


「ただいまー」


 しばらくして、咲幸が帰宅した。


「おかえり。お寿司買ってきたわよ」

「わぁ。お寿司、いいね!」


 咲幸がシャワーを浴びている間、倖枝は夕飯の準備をした。とはいえ、寿司を皿に移し替え、焼き鳥を温めただけだが。

 やがて、キャミソールとショートパンツ姿の咲幸が現れ、ダイニングテーブルに座った。


「ほら、中トロはさっちゃんが食べなさい」

「ありがとう! でも、ママも気を遣わないで食べてね」

「何言ってるの。今日はあれだけ褒められたんだから、ちょっとしたお祝いよ」


 一番上物な寿司ネタを咲幸に譲り、倖枝はイカを取った。


「もー……。受験はまだまだ先なのに、お祝いなんて早いよ」


 咲幸は恥ずかしそうにしながらも照れ笑いを浮かべ、まんざらでも無い様子だった。

 確かに浮かれるにはまだ早いが、倖枝にしてみればめでたい出来事だった――無理やり、気分を上げた。


「さっちゃんがあの大学に受かったら、そうね……春休み、遠くでもいいから旅行に連れて行ってあげる。お店は春名に任せて」

「やったー、旅行だー! サユ、あそこ行きたい」


 咲幸が挙げたのは、海外の映画会社が手掛ける、有名なテーマパークだった。咲幸も倖枝も、まだ行ったことが無かった。

 倖枝は勢いで提案したが、行き先があのテーマパークとなると、自分が遊んでいる姿が想像出来なかった。あそこではしゃぐのは、若い人間だという印象がある。だから、母娘で行くというよりも――


「そこは、お友達と卒業旅行で行くものじゃないの? ほら、近くに有名なお寺とかもあるし」


 それが自然だと思った。

 現に、あの一帯は修学旅行先としても有名だ。咲幸の高校は二年生の九月、海外だったが。


「サユはママと行きたいよ。……受験片付いたら、泊まりでデートしようよ。それが一番のお祝いになるから」


 倖枝は、正面に座る咲幸から上目遣いを向けられ、戸惑った。

 断りたいという気持ちが、真っ先に浮かんだ。しかし、受験に対する褒美となるならば、親として汲まなければいけなかった。それに――


「わかったわ、約束しましょう。その代わり――絶対に受かりなさいよ?」


 咲幸の受験のため。受験の動機付けのため。

 倖枝は自分にそう言い聞かせながら、頷いた。

 ――ちっぽけな自分にはそれぐらいしか応援出来ないのだと、理解していた。


「ほんと!? サユ、超頑張るよ!」


 とても喜ぶ咲幸を見ると、実に安い約束だと倖枝は思った。

 いや、本来であれば、母娘でデートという約束を交わしてはいけないのだ。だから、断りたかった。

 かつて、咲幸に連れられてイルミネーションを観に行った時のことを思い出す。娘が自分のために尽くしてくれたことが、心地よかった。

 しかし――母親として、再び求めてはいけない。

 嫌だから断ろうとしたわけではなかった。目の前に差し出されたものを、掴んではいけないのだ。


 倖枝は食後の後片付けを済ませると、冷凍庫からアイスクリームをふたつ取り出してリビングに向かった。ソファーで咲幸がテレビを見て、腹を休めていた。


「バニラとストロベリー、どっちがいい?」

「うーん……。それじゃあ、ストロベリーで」


 ストロベリー味のアイスクリームとスプーンを咲幸に渡し、隣に座った。

 テレビのバラエティー番組をぼんやりと眺めながら、倖枝もアイスクリームを食べた。高級なだけあり、普段の安物に比べ美味しく、舌触りもまろやかだった。


「サユ、大学で法律のことちゃんと勉強して……それから、ママのお店で働くよ」


 ふと、咲幸がぽつりと漏らした。


「ふたりで一緒にさ、お店大きくしていこうね。舞夜ちゃんのところに負けないぐらい」


 咲幸は首だけを倖枝に向き、無邪気に笑った。

 月城住建はハウスメーカーであり、HF不動産販売は売買仲介業者だ。会社の種類が根本的に違うことを咲幸は知らないのか、もしくは単純に規模の話をしているのか――倖枝は分からなかった。


「さっちゃん……」


 倖枝はスプーンの動きを止めた。

 倖枝の漠然とした見通しでは――この仕事を何歳まで続けられるかわからないが、自分の引退と共に廃業するつもりだった。その頃には夢子も、あの店を欲しいとは思わないだろう。

 咲幸は以前から、将来は不動産屋で働きたいと言っていた。その都度はぐらかしてきたからか、倖枝は自分の店に娘を従業員として迎えることは、一度たりとも考えなかった。

 だが、大学を卒業した咲幸と共に働いている様子を想像した。

 悪くないと思った。


「ダメよ。さっちゃんは公務員を目指しなさい」


 しかし、倖枝は突き放した。

 ――自分の人生に娘を巻き込んではいけない。その一心であった。


「えー……。夢子ちゃんも言ってたけど、公務員ってなんか地味じゃない?」

「地味でも食べ口には困らないし、定時に帰れるし、お給料も悪くはないし――とにかく安定してるのよ」

「そうかもしれないけど、やっぱりママと一緒がいいよ。ママみたいになりたいよ」


 倖枝は咲幸から、自分という人間を肯定された。

 それはとても喜ばしいことだった。暗く沈んでいた気持ちに、そっと触れた。目頭が熱くなった。

 だが、娘には決して肯定させてはいけなかった。

 自分と違い、いずれ出来る新たな家族を大切にして欲しい。


「お願いだから……さっちゃんは、母さんみたいに成らないで……」


 嬉しさとして込み上がった涙は、悲しみとして流れ落ちた。

 倖枝はアイスクリームとスプーンをテーブルに置くと、両手で顔を隠して俯いた。

 娘に『弱さ』を見せてはいけない――母親としてのその考えは、現在でも変わらない。しかし、何度も見られている以上、もう隠すことを厭わなかった。


「母さん、ろくに高校行ってないし、大学受験も全然知らない! さっちゃんに勉強して大学に行けなんて、言える資格無いわ! 母さんの勝手なワガママだって分かってる! それでも、さっちゃんには母さんが出来なかったことをやって欲しいのよ!」


 だから、抱えていたものを一気に吐き出した。まるで癇癪を引き起こしたかのように、喚き散らした。

 これを聞いた娘がどう感じるのかは分からない。それでも、倖枝は少しでも楽になりたかった。


「ごめんなさい……。母さんに都合の良いことだけを無理強いして、ごめんなさい……」


 そして、涙を流しながら謝罪した。

 倖枝は、自分があまりにも情けなかった。俯いて両手で顔を隠したまま、嗚咽を漏らした。

 これだけのことを一方的に押し付けたのだ。咲幸にとって、どれほどの重圧となるだろう。受験生の夏を迎える大事な時期に、母親として間違いなく悪手であった。


「別に、ワガママなんかじゃないよ……」


 咲幸の優しい声と共に、小柄な娘からそっと抱きしめられた。


「将来のことはまだ分からないけど……倖枝を守れるように、あたし頑張るよ」


 頭を撫でられ、倖枝はさらに涙が溢れた。

 十七年前。目の前の娘を産むが、ひとりだった。人生を共に歩く伴侶は居なかった。

 強くなりたかった。強くなろうとした。強い振りをしていた。

 しかし、無理だったのだ。


「ちゃんと大学を卒業してでて……立派なオトナに成るから。強いオトナに成りたいから」


 ろくでもない人生だった。弱さを一時的に忘れさせてくれる存在は居た。しかし、弱い自分を支えてくれる存在は、現在まで居なかった。

 だから、そのような存在が目の前に現れると、涙が出るほど嬉しかった。


「さっちゃん……」


 それがたとえ、自分の娘だとしても――差し出された手を、掴みたかった。

 倖枝は顔を上げた。涙で霞んだ視界の向こうで、咲幸が微笑んでいた。

 ぐしゃぐしゃの泣き顔を見られる恥ずかしさは無かった。むしろ、その小さな胸に預けたかった。


「安心して。あたしが一生、倖枝を支えるよ――好きなんだもん」


 倖枝は咲幸からソファーに押し倒された。

 唇にキスをされた。さらに、舌を絡められた。倖枝はそれを受け入れた。ストロベリーアイスクリームの味がした。

 咲幸のその行為が、倖枝に言葉の信憑性を与えた。


 一生、支えられる。

 咲幸と一緒に不動産屋を営む光景が、脳裏に浮かんだ。成人になった咲幸と一緒に暮らす光景を想像した。眩しいそれらは、やはり夢のようだった。

 その理想ゆめを叶えたい。しかし、叶えてはいけない。

 ――この人生に巻き込んで、娘の幸せを奪ってはいけない。

 娘には自分と違い、愛する人と結ばれて、幸せになって欲しい。


「ありがとう、さっちゃん! ありがとう!」


 それでも、娘の腕の中はとても心地良かった。

 相反するふたつの気持ちを抱え、倖枝は葛藤に苦しんだ。誤魔化すように、咲幸と抱き合った。

 混ざり合う感情の中、咲幸が自分の腕を引っ張ってくれる存在で居て欲しい――この時だけは、そう願った。



(第21章『進路』 完)


次回 第22章『残香』

倖枝は咲幸をインターハイ本戦に送り出す。

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