第22章『残香』
第055話
七月二十一日、金曜日。
倖枝は暑い中、この日もHF不動産販売で扱う物件の現地確認と写真撮影を行った。
午後五時。店に戻ろうとしたが、月城舞人から任された分譲地が近いこともあり、立ち寄った。自動車から下りて日傘を差し、更地を眺めた。
モデルハウスはあり得ない早さで建築工事を終え、もう完成していた。鍵を預かり、店に保管してある。
更地の手前には、プレハブ小屋が置かれていた。『月城住建』のノボリが立ち並ぶ中、プレハブ小屋の『現地案内所』の看板にのみ『窓口代理 HF不動産販売』と共に書かれていた。
奇妙な光景だと、倖枝は思った。
ハウスメーカーの分譲地での窓口代理店など、これまで見たことも聞いたことも無い。月城住建の銘柄があるからこそ、客が目にすれば不審がるかもしれない。よくわからない会社が勝手に寄生しているように見えなくもなかった。
いや――実際、弱小の不動産屋が大手ハウスメーカーに寄生して、甘い蜜を吸っているのだ。
改めてこの光景を眺めるも、倖枝は業務提携している実感が湧かなかった。わかってはいたが、まるで子会社のようだった。
舞人の笑みが頭に浮かび、倖枝はパンプスでノボリを蹴った。
午後四時半頃、倖枝は店に戻った。
「ただいま。いやー、この時期は堪えるわね」
「おかえりなさい、店長」
夢子は出払っているようで、店には高橋しか居なかった。
倖枝は机に鞄を置き、加熱式タバコと汗拭きシートを持って給湯室に向かおうとした。しかし、立ち上がった高橋からメモ用紙を渡された。
「店長が留守中、その物件の問い合わせがありました。後で折り返しの方、お願いします」
舞夜から預かった物件名と、顧客の氏名と電話番号が書かれていた。
金曜日夕方の問い合わせということは、おそらく土日の内覧を希望するだろう。
倖枝は壁のホワイトボードに目を向けた。この土日は夢子と共に、ふたりとも物件案内でほぼ埋まっていた。そして、高橋は分譲地の窓口業務に終日あてている。
現状、三人では手に負えないほどの仕事量であった。店が繁盛している嬉しさよりも、倖枝は呆れるように頭を抱えた。
「わかったわ。こっちは私に任せて」
土日のまだ空いている時間に予約を入れることが出来ないなら、ひとまず顧客情報だけでも貰おう。倖枝はそう思った。
舞夜から預かった物件は、以前から問い合わせが多い。客を食いつかせるという、狙い通りの役目を充分に果たしていた。
ふと店内の電話が鳴り、高橋が受話器を取った。
「はい、HF不動産販売でございます。……資料請求ですね。かしこまりました。郵送致しますので、連絡先を伺ってもよろしいでしょうか?」
高橋は顧客の氏名と住所を復唱しながら、メモ用紙にボールペンを走らせた。
「――土日はオープンハウスを開催をしていますので、ご来場をお待ちしています。それでは、失礼します」
通話内容から、分譲地の問い合わせだと倖枝は理解した。
倖枝も電話で受けたことがあるが、分譲地絡みは全て高橋に一任していた。営業職として半人前である人間をこの窓口業務に使うことが、最も効率的だと考えた――舞人の案件に直接関わりたくない気持ちもあるが。
なお、成約の際に月城住建から支払われる仲介手数料は、従業員三人と店とで四等分することになった。高橋も承諾した。その取り分でも、彼にとってはまだ、通常の営業職より稼げるのだ。
「ごめんね、高橋。手伝いたいところなんだけど、私も春名も手一杯で……」
「こっちは任せてください! 月城さんから貰った資料で、建物の構造も設備も頭に叩き込んでいます! 完璧に案内できますよ!」
こいつは一体、どこの会社の人間なんだろう――倖枝としては、その情熱を別のところに使って欲しかった。
「あっ、そうだ。今の人の顧客情報、ちゃんと登録しておいてよ?」
「うっす」
倖枝はそう言い残し、給湯室に入った。
汗拭きシートで顔を拭くと、冷蔵庫から麦茶のポットを取り出し、グラスに注いだ。冷たい麦茶に生き返った心地になりながら、加熱式タバコの電源を入れた。髪をまとめているシュシュは解かなかった。
月城舞人から分譲地窓口の業務を委託された際、契約書を提示された。よく目を通したが、落とし穴や誤認を誘発する点は無かった。
それどころか、顧客情報の取り扱いに関する記述が一切無かった。普通ならば、窓口業務で得た顧客情報は全て月城住建側に帰属し、流用は厳禁だろう。しかし、それが無いということは――倖枝は確認しなかったが、節度を守る範囲での流用が許されると捉えた。
つまり『予算一億五千万円で新築の購入を考えている顧客』として、HF不動産販売で扱っても構わないのだ。もっとも、彼らにしてみれば月城住建で新築を建てる事を第一に考えているだろう。あくまでもそれを尊重し、断念した時点で、営業を持ちかけるつもりだった。
月城住建側から仲介手数料の他、思いがけないものまで貰える。舞夜の後見人を差し引いても、倖枝には舞人からの充分な『お礼』だった。
「戻りました」
給湯室の扉の向こうから、夢子の声が聞こえた。
店に入ってきた足音がひとつではないので、倖枝はそっと扉を開けて店内を覗いた。
「社長も一緒だったんだ。いらっしゃい」
須藤寧々の姿もあり、倖枝は気分が上がった。タバコの電源を消し、店内に戻った。
「やっほ、店長」
「すいません、嬉野さん――早いところ見積もり出したいんで、社長お借りします」
寧々はヒラヒラと手を振るが、どこかカリカリしている夢子から商談スペースに連れて行かれた。
倖枝は麦茶をふたつのグラスに注ぎ、差し出した。
この店で夢子が預かっている物件の買手が決まり、買手からの要望を踏まえ最終的な金額を算出していた。
まだ数こそ少ないが、売却査定の問い合わせもあり、自社物件が着々と増えている。開店から約一ヶ月になるが、分譲地の件を除いても、順調な滑り出しであった。
しばらくしてふたりの打ち合わせが終わり、寧々が店を出ようとした。彼女を見送る体で、倖枝は寧々と一緒に店を出た。
「寧々さん――次の週末、飲みに行かない?」
「うん、いいよ。私も倖枝がちょっと心配だから、落ち着いて話をしようか」
「え?」
寧々から言葉通り、冷ややかな眼差しを送られた。
倖枝は全く身に覚えが無いまま、寧々の軽自動車を見送った。
*
七月二十四日、月曜日。
午後九時過ぎ、仕事を終えた倖枝はNACHTの扉を開けた。蒸し暑い夏の夜、冷房の効いた店内に汗が引いた。
「ごめんなさい。ビール貰える?」
倖枝はカウンター席に座ると、バーテンダーの男性にそう注文した。
バーでビールを注文してはいけないという風潮は無いが、倖枝としては若干の抵抗があった。それでも夏場は、洒落た酒で雰囲気を楽しむよりも、素直にのど越しを味わいたかった。
やがて、グラスに注がれたビールが差し出された。
泡と共に味わう一口目は、まるで乾いた全身が潤うような刺激があり、とても美味しかった。
バーではなくビアガーデンで食事も楽しみたいと思っていると、寧々が現れた。
「一週間お疲れさま――おっ、ビールいいねぇ。私も同じやつちょうだい」
寧々の手元にもビールのグラスが届き、倖枝のは飲みかけだが乾杯の真似をした。
倖枝は何か深刻な話をされる予感がしていたが、寧々の表情は穏やかだった。
「寧々さん……この前言ってた心配事って何?」
「ああ……。倖枝さぁ、あんた月城の社長の愛人になったって噂流れてるよ?」
恐る恐る訊ねたところ、とんでもない答えが返り、倖枝はビールを吹き出しそうになった。
「ち、違うの。あれは――」
「もちろん、私はわかってるよ。でも……何よ、あれ。分譲地の窓口なんて、今まで聞いたことないんだけど? 何をどうすれば、そんな仕事回ってくるわけ?」
寧々はビールを飲みながら、苦笑混じりに言った。
あの業務委託でそのように思われているのかと、倖枝は納得せざるを得なかった。確かに、ありえない仕事内容だと倖枝自身がよくわかっていた。しかし、世間の目がそのように捉えるとは思いもしなかった。
御影邸売却の時もそうだった。『倖枝が月城の館を売った』との事実だけが、まるで伝説のように業界をひとり歩きした。誰に売却したのかも、どういう事情なのかも、誰も気に留めないのだ。
「あの館を無事に売却したから、そのお礼だって渡されたのよ……」
倖枝は寧々に、およその事情を話した。とはいえ、分譲地の代わりに舞夜の後見人を任されたことは伏せたが。
「なるほどねぇ……。しっかし、また厄介なのに目をつけられたね」
「そうなの。でも、下手に断れないから……」
倖枝はふと振り返り、店内を見渡した。客の入りは疎らだが、それぞれのテーブルで談笑していた。
この店に月城住建の人間が居るのかは、わからない。しかし、ふたりの会話に聞き耳を立てている者が居ないことを確かめた。
「ていうか、社長のお気に入りじゃん。そこまで可愛がられたら、マジで愛人みたいじゃん」
「もうっ、そういうこと言わないでよ……。あのクソ野郎には、顔も見たくないぐらいムカついてるんだから」
舞人の普段からの態度だけでなく、このような噂まで流れていることで倖枝はなお腹を立てた。
苛立ってビールを呷った後、隣の寧々がカウンターテーブルに頬をついているのが見えた。物憂げな横顔が、艶やかであった。
「……もしかして、妬いてる?」
「そりゃ、いい気はしないよ。でも、私が言えた立場じゃないしね……」
寧々とはお互い、拘束しない仲だった。出会ってから長い付き合いであり、ふたりで話し合って決めたことでもない。現在は浮気、そして愛人の関係であるため、何も言わずとも適度な距離を保っていた。
「安心して。私には、寧々さんが一番よ」
それでも、寧々のそのような姿が、倖枝はとても可愛く思えた。グラスを弄んでいる寧々の手に、自分のをそっと重ねた。
寧々は手を動かし、倖枝の手に指を絡めた。
「そう言ってくれると、嬉しいねぇ……。そういえば、もう少しで倖枝の誕生日だけど、何かお祝いしてあげようか?」
「ありがとう。でも、気持ちだけで充分よ。というか、歳取りたくないから誕生日なんて忘れたいのに……」
八月八日、倖枝は三十八歳の誕生日を迎える。
三十を超えてから誕生日の度に憂鬱だったが、今年は少し違った。
「実はね……自分へのご褒美で、誕生日に買おうと思ってるのよ……
「え? マジで? 今のやつ、五年も乗ってないよね?」
「まだ三年よ。査定が下がらないし、次は社用車ってことにするし、丁度いいかなって」
「へぇ……。それで、何にするの?」
倖枝は、最近ウェブサイトで情報を探している車種を口にした。以前から欲しかった、L字標章が目印のSUVだ。
「うわぁ。儲けてる女は違うね」
「新車は流石にキツいから、中古だけどね。近くのディーラーに、三年の走行四万キロが六百万であるのよ。試乗させて貰ったけど、すっごい良かったわ」
「あのディーラーに試乗しに行く倖枝も凄いわ。私なんかが行ったら鼻で笑われそうだから、怖くて無理」
確かに、国内でも最高級に位置する銘柄であるため、倖枝もそのような噂を耳にしていた。しかし、倖枝が現在乗っている車種は国内で二番目に高級であるため、怖気づかなかった。
とはいえ、実際に正規販売店へ行ったところ、販売員から快く迎えられた。中古車が目当てにも関わらず、貶されるような真似は無かった。むしろ、同じサービス業として見習いたいぐらいの完璧なもてなしを受けた。
「意外と普通だったわよ」
「そりゃ、あんたが金持ってるからでしょ。でも、まあ……そこまでするってことは、マジで買うんだね」
「ええ。時期的に、今しかないもの」
倖枝がその車種を以前から欲しかったのは事実だ。
そこにきて、月城舞人から現在の自動車を扱き下ろされたのが決め手となった。あの男にだけは舐められたくなかった。二番手ではなく最高級の『本物』に乗りたかった。
「ただね……まだこのこと、さっちゃんに言ってないのよ」
くだらない理由を誰にも話せないが、咲幸には――受験を控え緊張している時期に、浮かれている姿を見せることに抵抗があった。大学の授業料はきちんと確保しているにしろ、大金を消費すれば金銭面で心配させる可能性もある。
「咲幸ちゃんだって、わかってくれるでしょ。倖枝は頑張ってるんだから、たまには自分を労ってもいいんじゃない?」
「うーん……。ありがとう」
倖枝の中での躊躇が晴れたわけではない。しかし、寧々から諭され、少しは楽になった。
何にせよ、販売店には購入の意思を伝えている。後は、咲幸にいつどのように伝えるか――倖枝は悩んでいた。
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