第056話(前)
八月一日、火曜日。
午前七時。咲幸は夏休みに入ったにも関わらず、制服姿だった。
「さっちゃん、準備できた? それじゃあ、行こうか」
「うん!」
倖枝は咲幸のボストンバッグを持ち、マンションを出た。自動車の後部座席に荷物を詰めると、駅へと走らせた。
朝の早い時間だが、既に日差しが強かった。
「ごめんね、母さんも一緒に行けなくて。こっちから応援してるからね」
運転をしながら、咲幸に改めて謝った。
いよいよ明日、咲幸がインターハイ本戦を迎える。近場の競技場で行われると倖枝は思っていたが、今年はこの国の最北地域で行われるらしい。飛行機での移動になる。
どのような結果になるにせよ、咲幸の帰りが最短で木曜日以降になるので、倖枝は同行を断念した。仕事が忙しい現在、休めなかった。
「サユこそ、ごめんね。帰ってきたら、受験勉強ガチでやるから」
「そっちも大事だけど……悔いの無いよう頑張ってきなさい」
泣いても笑っても、高校三年間の部活動の集大成だ。下手に未練が残れば勉強に支障が出ることを危惧し、倖枝は肯定した。
「ありがとう、ママ。頑張ってくるよ!」
駅に到着すると、同行する顧問教師の他、二名の生徒が居た。そのうちのひとりは、風見波瑠だった。この学校から陸上競技で本戦に進んだのは、今年は咲幸を含め三名だった。
倖枝は顧問教師に頭を下げ、この場を離れた。
途中、コンビニで烏龍茶、そして朝食にチョコクリーム入りのパンとカフェオレを購入し、帰宅した。
自宅でひとりになることは、倖枝にとって珍しくない。しかし、丸一日以上ひとりになることは、滅多に無かった。咲幸は外泊で遊びに行くことが無いため、部活動の遠征や合宿、他に修学旅行の時ぐらいだった。
ソファーに目をやると、割と最近、進路の件で子供のように泣いたことを思い出す。咲幸に諭されたこともあり、その延長で寂しさが込み上げるが――現在は少なからず、開放感もあった。
今日と明日の休日は、ひとりで自由な時間が過ごせる。
「さてと……」
顧問教師に挨拶するため、倖枝は小綺麗な格好で出かけていた。リビングのエアコンを点けると化粧を落とし、Tシャツとショートパンツに着替えた。そして、ヘアバンドで髪をまとめた。
倖枝は洗濯機を回し、朝食を摂りながら朝のワイドショーを観て過ごした。
洗濯物を干し終えると、午前九時だった。リビングのテレビで、インターネット動画配信サービスの海外ドラマを観ようとした、その時――インターホンが鳴った。
倖枝は鬱陶しいと思いながら、インターホンのカメラの映像を確認した。
長い黒髪を結った少女が、トートバッグを肩に掛け、立っていた。
「……」
倖枝は何も見なかったことにし、居留守を使った。ソファーに座ると、テーブルのテレビリモコンに手を伸ばした。
しかし、再度インターホンが鳴り、呆れて携帯電話を代わりに取った。
「……さっちゃんなら遠くに行ったから、留守にしてるわよ」
『知ってます。お母さんが寂しがってると思って、来てあげました』
「間に合ってるから、帰って勉強しなさい」
倖枝はそう言い残し、通話を切った。
携帯電話をテーブルに置くと、インターホンが再度鳴り、倖枝は苛立って立ち上がった。
藍色の瞳の少女がカメラを覗き込み、笑顔で手を振っていた。
他人の神経を逆撫でするのが上手いと、倖枝はもはや感心した。降参の意思表示として、応答することなく無言でマンション入口を解錠した。そして、部屋の鍵も解錠し、ソファーに座った。
テレビリモコンを操作して、海外ドラマの一覧を眺めていると――部屋の扉が開く音と、施錠する音が聞こえた。
「おはようございます、お母さん。今日も暑いですね」
ソファーの横に立った少女を、倖枝は気だるそうに見上げた。
レース付きの白いカットソーに、黒いドット柄のフレアスカート。夏ながらも清楚な格好だと思った。
「あれ? ノーブラですか? 乳首、浮いてますけど?」
「うるさいわね! 今日はどこにも行かないから、いいのよ!」
ひとりきりのはずだったので、倖枝はいつも以上にだらしない部屋着姿だった。咲幸の前ではまだ、カップ入りのタンクトップやキャミソールを着ていた。
「あんたねぇ……。ホントに何しに来たのよ? こっちは有意義な
倖枝は胸を隠すことなく、突然の来客者――月城舞夜に半眼を向けた。
「うーん……。とりあえず、勉強ですかねぇ」
「わざわざこんな狭い所に来なくても、あんたんちの方が何百倍も快適でしょうに」
どうせ舞夜は特に用事が無いのだと、倖枝は分かっていた。わざわざ咲幸の留守を狙い、からかいに来たのだ。
折角のひとりきりの時間を邪魔され、倖枝はとても不機嫌だった。相手が仕事での『上客』であると忘れるほどであった。とはいえ――
「まあ、いいわ。受験生はどこだろうと、死ぬ気で勉強しなさい。このテーブルでもキッチンのテーブルでも、好きに使ってちょうだい。……私は寝るから」
朝食による血糖値の上昇だろう。倖枝は強烈な眠気に襲われ、あくびをしながらソファーを立った。
自室に入り扉を閉めると、エアコンを点けてベッドに倒れ込んだ。カーテンは閉めたままだった。
うとうとした意識が遠退く中――舞夜になら気兼ねなく勉強をしろと言えるのだと、ぼんやりと思った。
夜間は何度も目を覚ますが、この数時間はぐっすりと眠れた。
とても静かだった。自室の外から、特に音が聞こえなかった。
「お母さん、そろそろ起きてください。
だから、倖枝は身体を揺すられて起きると――自室に舞夜が居る状況が、すぐに飲み込めなかった。開いたままの扉から差し込む光が、眩しかった。
突拍子も無く訪れた事を思い出すと共に、不機嫌な気持ちも込み上げた。休日を邪魔されたことだけではなく、こうして起こされたからであった。
「……今、何時よ?」
「ちょうど十二時ぐらいです。お腹空きました」
「私は空いてないから、もうちょっと寝かせて」
倖枝は寝返りを打ち、舞夜に背を向けた。
朝食後から寝ていただけだが――それでも多少は空腹を覚えるが、まだ我慢できる範囲だった。悩み事を一時的に忘れている現在、眠れる内に眠り、疲労を回復させたかった。
「もうっ、しっかりしてください」
「うるさいわね……」
勝手に押しかけてきておいて、文句を言わないで欲しい。
倖枝はぼんやりとそう思っていると、ベッドが揺れ――背後で、舞夜がベッドに腰掛けたのが伝わった。
「これ、飾ってくれてるんですね。嬉しいです」
サイドテーブルにある天使の置物を言っているのだと、倖枝は理解した。
舞夜がこのマンションを訪れるのは、咲幸の誕生日以来であった。あの時は自室に入れなかったので、贈った本人が見るのは初めてだった。
クリスマスは、この置物に助けられた。それ以降も、目にすると不思議と気持ちが和らぐことが多かった。
「……」
しかし、倖枝は感謝を述べることがなんだか恥ずかしかったので、無言で背中を向けたままだった。
そのような態度を取っているからだろうか――ベッドの敷きパッドと衣服の擦れる音が聞こえると共に、背後に大きな存在感と熱を感じた。
「ちょっと、何やってるのよ」
倖枝は慌てて振り返ると、舞夜がベッドで横向きになっていた。
「起きてくれないから、わたしも一緒に寝ます。ちょうど、疲れてるんで……」
薄暗い空間で――声と同様、舞夜の拗ねた表情が見えた。
倖枝は呆れるが、根負けするつもりは無かった。まだ眠気が残っているので、再度目を閉じた。
視覚が遮断された中、近くから舞夜の匂いがした。過去より鼻にしているものであり、現在の館の匂いでもあった。
それは倖枝に『他所』を彷彿とさせた。
このベッドで偶に一緒に寝る存在は、この住居と同じ匂いだった。
そう。その存在は、現在は居ない。
改めて実感した結果、込み上げてきたのは寂しさではなく――苛立ちだった。
この部屋で、このベッドで、他所の匂いがすることが、倖枝はなんだか許せなかった。
「わかったわよ……。何か食べましょ」
しかし、感情に任せることはなく、理性が抑え込んだ。観念したように見せかけ、不機嫌そうに起き上がった。
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