第079話
九月十四日、木曜日。
倖枝はその日も無事、HF不動産販売の仕事を終えた。
精神面への支障は無かった。それよりも、放課後の時間帯になると、咲幸が店を訪れないかと心配していた。しかし、訪れることは無かった。
朝、着替えを取りに自宅に戻った際、食事と片付けを行った形跡があった。咲幸が波瑠の元に戻らず言いつけを守ったのだと、倖枝は安心した。
それでも、母娘として同じ屋根の下で生活する姿は、まだ想像できなかった。顔を合わせ辛かった。
だから、午後八時を過ぎた頃、倖枝は店長席のパソコンで賃貸のウェブサイトを眺めていた。
「春名はさー、部屋借りる時、何を優先する?」
「え? 引っ越すんですか?」
何気なく振ったのではない。最も近い同僚である夢子には、現状の『事実』のみを伝えておこうとした意図があった。
「ほら。さっちゃんの受験勉強も、夏休みが開けて大事な時期じゃない? 受験が終わるまでは、ひとりの方が良いと思って……私だけワンルームに移ろうと思うのよ」
苦しい言い訳をしている自覚が、倖枝にはあった。一般的な親ならば、むしろ子供を支える立場だろう。
適当な嘘とはいえ――次の春頃までに復縁したいという気持ちだけは、本心であった。
「へぇ……。まあ、ピリピリしてナイーブな時期ですもんね」
夢子が納得したことが、倖枝には意外だった。何はともあれ『咲幸の受験勉強を気遣って一時的に別居する』という体を押し通せた。
「もし引っ越すとしたら……通勤は車ですし、駅チカはどうでもいいですよね。やっぱり、一番は部屋の広さと家賃のバランスでしょうか。その次ぐらいに、築年数と部屋の綺麗さです」
「春名はそうなんだ。私は逆かなぁ」
女性だけでこの手の話をした場合、真っ先に挙がるのが、出入り口の防犯カメラや自動施錠等の警備面だ。それらが掠りもしないあたり、お互い長年の独身経験が生きていると、倖枝は笑った。
「あー、でも……。やっぱり一番は、近隣住人の事情ですね」
夢子はふと、思い出したように訂正した。
「ぶっちゃけ、私もそれが一番だけど……どこの不動産屋も教えてくれないじゃない」
近隣の治安や騒音等の事情は、倖枝も不動産売買仲介業者である以上、買主から訊かれることが多い。しかし、個人の私生活に関する情報に敏感になっている昨今、触れてはいけないという風潮になりつつある。そのような法律は無いが、訴訟の危険性があるのだ。また、第三者の主観で伝えると、誤解を招く可能性もある。
よって、買主もしくは借主の本人が現地に赴き、その目で確かめるしかない。しかしながら、その地で実際に暮らさなければ見えない部分が多い。結局のところは運に左右されると、倖枝は思っていた。
もっとも、過去に近隣で大きな揉め事があった場合、売主並びに仲介業者は重要事項としての説明義務はあるが。とはいえ、俗に言う『事故物件』と同様、稀な事例だ。
「私達も些細な程度なら『知らなかった』で売ることありますし、そこはある意味でお互い様ですよ」
「些細なことでも気にはなるのよ。……まあ、そのへんの説明義務まで法改正されたら、ウチらも窮屈になるわね」
閉店間際、部下と些細な話をしている時だった。
ふと店の扉が開き、須藤寧々が姿を見せた。
「よかった、まだ開いてた。お仕事、お疲れさま」
言葉とは裏腹に、特に慌てている様子も無いように倖枝には見えた。
この時間に寧々が訪れるのは珍しい。何事かと思った。
「社長、どうしたの?」
「別に急ぎでもないんだけど……。あれ? 高橋君は?」
「あいつなら月城の所に行って、そのまま直帰ですけど」
夢子の言う通り、高橋は分譲地の件で月城住建を訪問している。倖枝は喜ぶ気分ではないが、先日も二件目が成約したのであった。
「居ないんだったら、これ渡しておいてくれる? あの子に頼まれた、リフォームの間取りと見積書」
倖枝は寧々から、クリアファイルを受け取った。
そういえば、高橋の預かっていた中古物件がリフォーム込みで売れたのだと思い出した。
「へぇ……。結構がっつり変えるのね」
倖枝は見積書の設備を眺め、そう思った。金額は合計で一千万円と、リフォームにしては大きい数字だ。
「それで決まれば、私としては美味しいんだけど」
「高橋だからねぇ……。ていうか、これ急ぎ? 呼び戻そうか?」
「急ぎでも何でもないから、明日でいいよ」
それなのにこの時間に訪れたことが不可解であるが――別の用事のついでに立ち寄ったのだろうと、倖枝は思った。
寧々が高橋の席に座り、正面の夢子に微笑みかけた。
「夢子ちゃん、そろそろ上がりでしょ? お姉さんとご飯行かない?」
「ええー」
寧々の誘いに、夢子は露骨に嫌な態度を見せた。
どちらかというとこれが主な要件で、こんな時間に来たのだと、倖枝は納得した。
「社長さんは、今夜ひとりなの?」
「ちょっと旦那にキレて、飛び出してきちゃった……」
「それじゃあ、私と行きましょうよ。ちょうど私も、今日はひとりなのよ」
おそらく寧々は、倖枝は娘との夕飯があると思い、夢子を誘ったのだろう。
夢子は自分の時間を大切にするので、このような突然の誘いは過去より正直に断る傾向にある。取引先との付き合いは大切にして欲しいと倖枝は思うが、今回は幸いだった。
「そうなんだ。いやー、ついてるわ」
「社長も嬉野さんも、すいません」
倖枝は少しだけ浮いた気分で、帰りの支度をした。夢子に店の戸締まりを任せた。
舞夜に夕飯の準備は頼んでいないが、念のため、携帯電話のメッセージアプリで遅くなることを伝えた。
*
寧々は酒を飲みたがっていたが、倖枝は明日の仕事を言い訳に断った。
おそらく、酒が入れば寧々と素肌を重ねることになる。水面下で感情の乱れを抑えている現在、倖枝はそのような気分ではなかった。
寧々と楽しく食事をしたかった。ラーメン屋と定食屋の二択をふたりで悩んだ末、後者になった。それぞれの自動車で、チェーン店の定食屋に向かった。
午後八時半にも関わらず客は意外と入り、明るい雰囲気の店内は賑わっていた。
倖枝はしまほっけ定食を、寧々は肉野菜炒め定食を、それぞれ注文した。
「旦那さんにキレたって、何があったのよ?」
しまほっけは脂が乗り、美味しかった。それを味わいながらも、倖枝は緊張気味に訊ねた。
寧々が家族と喧嘩することは、滅多に聞かない。まして、この時間帯にひとりで飛び出してくるのは初めてだ。
倖枝は心のどこかで、自分と同じ境遇であることを期待していた。
「いやー……まあ、大したことじゃないんだけどね。ほんと、大したことのない積み重ねっていうか……食後の洗い物とか、風呂掃除とか、最近は家事を手伝ってくれなくて……。溜まってたものが爆発したってわけよ」
寧々が言うには、夫に模型をせがまれ許した結果、それの制作に夢中になっているらしい。婿養子の夫は大工なので、その手のものは凝りそうだと倖枝は思った。
組み立てた模型を寧々が破壊したのかは分からないが――倖枝にしてみれば実に些細な喧嘩であり、期待外れであった。
「私は専業主婦じゃないし、共働きだっつーの。家事ぐらい、いちいち言わなくても分担して欲しいよ。……倖枝の
「え?」
突然振られ、倖枝は戸惑った。
「えっと……お互い、気がついたら取り掛かるような感じ……」
ずっと遠い記憶を掘り返しているような感覚だった。
咲幸とふたりで生活していた時は、確かにそうだった。特に役割分担は決めていなかった。咲幸の割合が大きかったが。
「咲幸ちゃんなら、言わなくてもそんな感じだろうね。いいなぁ、咲幸ちゃん。うちの子らも、咲幸ちゃんみたいになって欲しいよ」
娘のことを褒められ、倖枝は苦笑して動揺を隠した。そのように育てた覚えが無ければ――そのような生活も、現在は無いのだから。
「それで、これからどうするの?」
自宅を飛び出したとはいえ、家出と呼ぶまでには至らないと、倖枝は思った。
「どうするって……もうちょっとしたら帰るよ。こうでもして痛い目見て貰わないと、たぶん反省しないだろうからね」
やはり、一時的なものだった。
いざとなれば本格的な家出も可能だと警告のつもりなのだと、倖枝は理解した。確かに、口頭で伝えるよりは、かたちとして知らしめる方が効果はある。
「なるほどね……。安心したわ」
「もしもガチな喧嘩になったら、倖枝のところに世話になるかもね」
「そうならないように、祈っておくわよ……。ちなみにだけど、喧嘩した時はどうやって仲直りしてるの?」
倖枝は知りたい情報を何気なく訊ねた。同じように使えるとは思えないが、何か参考になりそうな話が欲しかった。
「うーん……。お互いに頭下げて、後はスイーツでも貰ったら許すぐらいのノリかな、ウチは。ムカつくところあっても、やっぱどこかで折り合いつけないと。後はほら……互いに条件を出して、それを守るようにするの」
互いに歩み寄る努力をしているのだと、倖枝は思った。己に罪悪感があり、かつ血縁を大切にしたいと思うからこそだろう。どちらも無くなった時、きっと絶縁への拒絶に至る。
「人間なんて、綺麗な部分だけじゃないじゃん? 嫌なところも理解して付き合っていかないと、って思うんだよね……家族だと、余計にさ」
そういうことか――その言葉に、倖枝はとても納得した。
この十七年、咲幸には綺麗な部分しか見せてこなかった。無理をしてでも倖枝なりに『強い母親』を演じてきた。
咲幸もまた、そうだった。二面性とも言える部分を隠し『可愛い娘』を演じていた。
思えば、いつだって仮初の母娘だった。互いに理解を拒んでいた。だからこそ水面下ですれ違い、どこかで一線を引き、喧嘩も無かった。
そして、互いにありのままの姿を晒した結果『恋人』になっていた。あの姿のまま『母娘』で居なければいけなかったのだと、倖枝は思う。
「そっか……。私も、スイーツ買おうかしら」
「ん? 咲幸ちゃんと、何かあった?」
「ええ。この前、ちょっと喧嘩しちゃってね……。今もまだ、ギクシャクしてるのよ」
「そうなんだ。でもでも、甘いのあげて許してくれない女の子なんて居ないって」
倖枝の正面に座る寧々は、にかっと笑った。
まるで、肩でも叩かれて励まされているようだと倖枝は思い、小さく微笑んだ。
スイーツで済むなら、どれほどよかったことか――
ふたりでこのような話をしていたから、食後に甘いものが食べたくなった。しかし、この定食屋のメニューにそのようなものは無く、ふたりで笑い合った。
「ご飯に付き合ってくれて、ありがとうね。今度は、倖枝と飲みに行きたいな……」
店から出た際、ふと寧々が倖枝の手を握った。
駐車場に他の客達が居るが――特におかしくない光景だと倖枝は思い、寧々の手を握り返した。
甘えるようにはにかむ寧々が、可愛かった。
「私もよ、寧々さん……。また連絡するわ」
「待ってるからね」
キスをしたい衝動が込み上げるが、倖枝はそれを抑え、寧々と別れた。
確かに、現在は倖枝にとって大変な状況だ。しかし、寧々に『弱さ』を預けたいとは、やはり思わなかった。
ただ、それに頼らずとも――寧々を相手に性欲を満たしたい欲求は、久々にふたりで時間を過ごしたからか、確かに在った。
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