第080話

 九月二十五日、月曜日。

 倖枝が自宅を出て、約十日が経過した。何も無い、怠惰な十日間だった。

 倖枝は着替えと私物を取るため、咲幸が登校した朝方に、何度か自宅に戻った。その際、ダイニングテーブルに生活費を置いた。咲幸との連絡も、顔を合わせることも、一度も無かった。

 賃貸は探しこそしたが、ウェブサイトを眺めるだけであった。不動産屋に問い合わせることも、現地の周辺環境を確かめに行くことも、無かった。

 どこか、本気になれなかった。倖枝には、結局は咲幸と完全に別居する覚悟は無く、躊躇していた。


 館での暮らしは慣れたが、一線を引いていた。あくまでも、風呂と寝床――舞夜と同じベッドだが――を借りているだけだった。食事は外食もしくは惣菜で舞夜と別に済まし、舞夜とは就寝以外で顔を合わせなかった。

 舞夜との性交も無かった。やはり、そのような気分や雰囲気にはなれず、ベッドでは眠くなるまで談笑していた。奇妙な関係ではあるが、一応は恋人らしいやり取りであると、倖枝は思っていた。


「倖枝さん、ちょっといいですか?」


 午後十一時、リビングにパジャマ姿の舞夜が現れた。

 いつも通り就寝の誘いかと倖枝は思ったが、舞夜は神妙な面持ちだった。


「なに?」

「一応、話しておきますね」


 改まって何だろうと、倖枝は身構えた。


「今日から、大学入学共通試験の願書受付が始まっています」


 大学入学共通試験。聞いたことのある単語を、倖枝は思い出す。

 そう。年明けの一月に全国一斉に行われる、かつて『共通一次試験』や『センター試験』と呼ばれていたものだ。国公立大学に入学するためには、必ず受験しないといけない。

 大学の願書自体は、それを終えた一月下旬以降に提出するという印象があった。

 では、共通試験の願書は高校側を通して、いつ提出するのか――舞夜からこうして聞かなければ、倖枝は忘れていた。

 舞夜がわざわざ伝えに来た意図は、ひとつしかなかった。


「さっちゃんが提出したのか……わかる?」


 倖枝の問いに、舞夜は首を横に振った。

 おそらくは、希望者がそれぞれ学校側に提出する仕組みだろう。咲幸と絶縁状態の舞夜が知らなくて当然だと、倖枝は思った。


「期限はいつまで?」

「来週の木曜までです」

「受験料は?」

「二万円ぐらいです」


 咲幸に渡している生活費から出せる金額ではあるが――問題は、現在の咲幸に大学進学の意思がまだあるのかであった。倖枝は悪い可能性を考え、不安になった。


「教えてくれて、ありがとうね。明日にでも……ちょっと様子見てくるわ」


 倖枝は舞夜に微笑みかけた。

 咲幸と顔を合わせるのは、確かに憂鬱であった。しかし、何としてでも共通試験を受験させなければならない。これまでのふたりの努力を、無にしないために。

 舞夜から、心配する視線を向けられた。



   *



 九月二十六日、火曜日。

 倖枝は朝から館を出て、外で休日を過ごしていた。日中はまだ暑かった。

 午後からはショッピングモールに行った。買い物やカフェで時間を潰していた。

 次第に、学生服姿の少女達の姿が見え――いつの間にか午後五時になっていることに気づいた。

 そろそろか。倖枝は憂鬱な気分で買い物を切り上げ、モールを出ようとした。


 ――甘いのあげて許してくれない女の子なんて居ないって。


 ふと、寧々の言葉を思い出した。

 スイーツで咲幸の機嫌を取れるとは思えない。しかし、倖枝は淡い希望を抱き、モール内のプリン屋に足を運んだ。かぼちゃとシナモンのプリン、そしてモンブランクリームの載ったプリンを、ひとつずつ購入した。

 普段のこの時間帯であれば、夕飯としての惣菜も購入する。しかし、倖枝はそのままモールを去った。


 午後五時半。倖枝は緊張しながらも、自宅の扉を開けた。

 玄関に学生用のパンプスはあるが、夕陽の差し込むリビングには、誰も居なかった。

 しかし、キッチンでは炊飯器が動いているので、一時的な留守だと思った。リビングのソファーに座り、帰りを待った。

 約十分後、玄関の扉が開いた。

 玄関の靴と明るいリビングでから倖枝の存在に感づいたのだろう。不機嫌な表情で、ジャージ姿の咲幸がリビングに現れた。

 帰宅後にジョギングに行っていたのだと、タオルで汗を拭いている咲幸を見て、倖枝は理解した。

 ソファーから立ち上がった。約十日振りになる、母娘の再会だった。『おかえり』も『ただいま』も無いまま、向き合った。互いに緊張した面持ちだった。


「……共通試験の願書、出したの?」


 倖枝は口を開き、単刀直入に訊ねた。


「あたし、大学には行かないよ。高校卒業したら、働くから」


 考えていた『悪い可能性』が現実となった。倖枝は蒼然とした表情で、下唇を噛んだ。


「どうして!?」

「ママにも、誰にも――これ以上、迷惑かけたくないもん! あたしひとりで生きていくの!」


 同じだった。

 倖枝も咲幸を産んだ時――世話にならざるを得なかったが――両親に対し『迷惑』だと後ろめたさがあった。成人を迎えても、そうだった。なるべく早く、ひとり立ちしたかった。


「迷惑なんかじゃないわ! だから、そういうこと言わないで!」


 かつての両親自身が迷惑に感じていたのかは、わからない。しかし、倖枝は親の立場となった現在、そうは思わなかった。


「お願いだから、大学に行って卒業して……立派な大人になって!」


 たったひとりの娘がきちんと自立するまでを、無償で支えたかった。

 学歴に捕らわれる価値観は古いと、倖枝は思う。それでも、自分が長年それに負い目を感じてきたからこそ――娘には、同じ思いをさせたくなかった。


「自分が大学行ってないからって……そういうの押し付けるの、やめてよ! ほんっとうに、迷惑なんだから!」


 咲幸の言葉が至って正論であると同時、倖枝にはとても衝撃的であった。瞳が大きく見開き、うろたえた。

 だが、ここで打ち負かされて逃げてはいけないと思う一心から、かろうじて冷静でいられた。だがらこそ、疑問が浮かんだ。


「一体いつから、そう思ってたの?」

「……」


 咲幸は睨んでいた視線を外し、俯いた。


「答えなさい! 咲幸!」


 一向に黙ったままの咲幸に、倖枝は近づいた。そして、右手を振り上げた。


「そうやって、またぶつの!?」


 しかし、顔を上げた咲幸に、倖枝は動きを止めた。

 ――涙ぐんだ瞳で、咲幸は倖枝を見上げた。

 図星だった。自分の理想ばかりを一方的に娘に押し付けていたと、倖枝は思う。これまでの人生経験から、ひとりの親として娘への『教育』のつもりだった。

 それは決して間違っていない。

 ただ、やり方に問題があった。怒鳴って、叩いて、そして逃げ出して――無茶苦茶だったと、倖枝は思った。結局のところ、歩み寄る努力をしたつもりが、何も出来ていなかった。

 どれだけ身体を痛めつけても、きっと理解して貰えないだろう。母親への悪態の罰は、もう充分に与えたのだ。

 叱るという行為は、間違いを正す目的がある。叱ったつもりだったが、単に怒っただけだった。

 そう。現在この腕は、娘を叩くために在るのではない。


「ごめんなさい……さっちゃん」


 娘を抱きしめるために在るのだと、倖枝は理解した。

 久しぶりに感じる娘の温もりは、とても懐かしく、安心感があった。

 腕の中で、咲幸は暴れなかった。小さな身体は震え、嗚咽が聞こえた。

 一連の言葉は、きっと嘘だ。敢えて、心にも無いことを言っていたのだと、倖枝は思った。


「母さんはね、さっちゃんにどうしても大学に行って欲しいの……。これが最後のワガママよ。だから……どうすれば、母さんの言うこと聞いてくれる? 正直に言ってみて」


 ――互いに条件を出して、それを守るようにするの。


 母親としての経験が人一倍少ない倖枝にとって、娘をどう諭せばいいのか分からなかった。

 そんな時、寧々が言っていたことを思い出した。こちらから条件を出す代わりに、咲幸の条件を受け入れる。たとえどのような条件ねがいでも、咲幸の未来のためには聞き入れるつもりだった。


「サユは、またママと一緒に暮らしたい……。ひとりっきりで、寂しかった……」


 倖枝の腕の中で、咲幸は掠れた声を漏らした。

 ああ、そんな簡単なことでよかったんだ。倖枝にとって、思いがけない回答だった。瞳の奥が熱くなった。

 倖枝は返事の代わりに、咲幸を強く抱きしめた。そして、娘と一緒に泣きじゃくった。

 咲幸は、波瑠に迷惑をかけないという言いつけを守っていた。そのうえで、寂しいと感じたのだろう。


 ――こうでもして痛い目見て貰わないと、たぶん反省しないだろうからね。


 痛い目なら、互いに充分見た。反省も充分行った。だからもう、歩み寄ろう。

 ようやく、この壮大な母娘喧嘩が終わりを迎えたのだと、倖枝は思った。

 いや――その前に、もうひとつ条件を提示しなければいけない。


「母さん、さっちゃんの『母親』で頑張るから……さっちゃんも、母さんの『娘』で居てくれる? あのことは、お互いに忘れましょう……」


 これを有耶無耶にしてはいけなかった。再び一緒に暮らすにあたり、線引しなければいけなかった。


「うん……。サユも、頑張るよ」


 関係を正すため、おかしな話だが、互いに努力しなければいけない。

 果たして、本当に出来るのだろうか――倖枝に不安が過ぎる。

 そもそも、恋人として一度意識したものを、正せるのだろうか。不安は強まるばかりだった。

 しかし現在は、泣きじゃくる顔で見上げる咲幸を信じるしかなかった。


「よしっ、ご飯にしましょう。母さん作るから、シャワーで汗流してらっしゃい。……デザートに、プリンあるからね」


 不安を誤魔化すように、倖枝は笑顔を作って切り上げた。


「ほんと? やったー!」


 咲幸はまだ涙を流しながらも微笑み、風呂場へと向かった。

 どこか幼い雰囲気は、倖枝のよく知る娘の姿であった。


 咲幸がシャワーを浴びている間、倖枝は夕飯の支度の前に、自室に閉じこもった。

 携帯電話で、舞夜と通話した。早々と今日の経緯を説明し、十日間の礼と、この部屋での生活を再開することを伝えた。


『ふーん。そうですか……』


 通話を切る直前、つまらなそうな舞夜の声が、倖枝の耳に届いた。



(第30章『条件』 完)


次回 第31章『成人(前)』

舞夜が十八歳の誕生日を迎える。

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