第31章『成人(前)』
第081話
十月六日、金曜日。
倖枝は午前九時半頃、HF不動産販売に出勤した。
「嬉野さん、なんかご機嫌ですね」
「えー。そう見える?」
夢子と一緒に掃除をしているとそう言われ、倖枝はわざとらしく笑った。口にはしないが何もかもが順調のため、機嫌が良いとの自覚はあった。
咲幸と母娘として仲直りをして、一週間以上が経過した。受験勉強に励む娘と、それを応援する母として、良好な関係が続いていた。ありふれた日常こそ、倖枝にとっての幸せだった。
再び、互いを『女』として見ることを危惧していたが――現在のところ、そのようなことは無かった。ただ、まだ暑く自宅では薄着で居ることもあるため、首から下の肌をなるべく見ないよう、意識はしているが。
「そういえば、お部屋探しどうなったんですか?」
「あれね……やっぱり別居はよくないなって、思ったのよ。さっちゃんの受験を、頑張ってサポートするわ」
「なるほど。まあ、その方がいいですね」
一時の気の迷いとはいえ、とんでもなくバカなことを考えていたのだと、倖枝は苦笑した。夢子が疑うことなく納得してくれているのが、幸いだった。
ひとり娘である咲幸と離れて、寂しかった。出来るなら、家族としていつまでも一緒に居たいが――一度離れたからこそ、いつまで一緒に居られるのだろうと、倖枝は思った。
倖枝は咲幸に、自分のように成らないで欲しいと望む。家庭を、家族を大事に出来る人間に成って欲しいと願う。
そう。咲幸にも家庭を持って欲しい。即ち、親元を離れることになる。
いつかは分からないが、その未来が訪れた時――ひとりきりで耐えられるのかと、倖枝は考えた。
「ていうか……今さらですけど、家買ったらどうですか?」
「なんでそうなるのよ」
突拍子も無い提案が、倖枝には冗談のように聞こえた。
咲幸が第一志望校に合格した場合、現在の自宅から通うことになっている。しかし、大学卒業後もそうなのか、分からない。現実的に考えると、やはり倖枝がどこかでひとりきりの生活を送ることになる。その場合、持家より賃貸の方が、使用面や維持での効率は遥かに良い。
いや、もしも咲幸と永続的にふたり暮らしだとしても、ふたりで持家は効率が悪すぎる。広々と暮らせることや、ある程度は用途に合わせて自由に設計できること等、利点が全く無いわけではないが。
「私、割とマジで独り身の家建てようかなって、最近思ってるんですよ。社長にも相談して貰ってます」
そういう理由で提案したのかと、倖枝は納得した。
夢子からはひとりの銀行員を除き、浮いた話を聞かない。ひとり、もしくはふたりで、かつ生活の拘りや趣味の用途が強いならば、持家で落ち着きたい気持ちが理解できた。
そう。不変が限りなく決まっているならば、将来設計は立てやすいのだ。
「いいじゃない。私もあんたと同じ立場なら、同じこと考えてるかもね」
倖枝は驚きこそしたものの、夢子の意見を肯定した。
考えてもみれば、売買仲介の不動産業者にも関わらず、従業員三人全員が賃貸生活というのも、おかしな話だ。実際に持家があると、営業の視線も多少は変わりそうだと思った。
夢子と店の清掃を済ませ、開店の時間を迎えた。
「高橋は……市役所に寄ってから来るのね」
倖枝はホワイトボードの予定表を眺めた。預かった物件の資料作成のため、市役所で情報を調べている。
「分譲地も三件目が決まりそうらしいですよ」
「へぇ。あの子、割と大変なのね」
暇そうだからという理由で倖枝は高橋に分譲地を一任したが、最近は彼の『本職』が忙しそうであった。
まだ人数に余裕のあったチェーン店の頃、彼の成績は確かに今ひとつだった。しかし、三人体制の環境に変わり、追い込まれたように倖枝には見えた。結果として部下がこの状況下で成長を遂げ、嬉しかった。
「そう思うなら、手伝ってあげたらどうですか?」
「あー……それはパス。せめて、月城じゃなかったらねぇ」
店として月城住建から仕事を請け負っているが、倖枝個人として、直接のやり取りは抵抗があった。
月城舞人のことが好きになれない。そして、舞人の背後には――
倖枝はホワイトボードの予定表を眺めた。今日の自分の予定には『十八時 月城様』と書かれていた。
*
午後五時半を回り、倖枝は店から自動車で舞夜の館へと向かった。
気分は浮かなかった。どちらかというと、憂鬱気味だった。
咲幸と復縁して以来、舞夜とは仕事以外の連絡を取っていない。恋人としては、海でのデート一度きりということになる。
咲幸との生活で、舞夜の名前は互いの口から出てこない。もしも、舞夜とのデートが咲幸に知られたら、今度こそ取返しのつかないことになると倖枝は思う。
もう、咲幸を裏切りたくなかった。
所詮は、舞夜の何が好きなのか分からなかった程度だ。仕事だけの関係に戻ったところで、どうもしないだろう――自分にとっては。
あの日は、舞夜から咲幸を奪い取った。あの夜は、舞夜をドライブに付き合わせた。
倖枝には、舞夜に対する負い目があった。大きな責任を感じていた。
咲幸と風見波瑠の関係が現在どうなっているのかは、わからない。せめて、舞夜と咲幸も恋人として復縁できれば責任は果たせると考えるが――咲幸の現状を見る限り、厳しいだろう。
それでも、倖枝は咲幸に隠し事をしたくなかった。こちらの一方的な都合になろうとも、舞夜との関係を終わらさなければならなかった。
そう心に決めながら、自動車を運転した。
「それじゃあ、これで進めておくわね」
館に到着後、不動産の売買契約書に、買主である舞夜から記名押印を貰った。
舞夜が今回購入するのは、以前購入した、再建築不可の『長屋』の隣にある空家だった。やはり建物に価値は無く、四十坪の土地価格のみである八百万円だった。適正価格であるが、それでも物好き以外は買わないだろう。倖枝自身、売却に出ていたことを知らなかったほどだ。
舞夜がどのような意図でこの物件を手に入れるのかは、相変わらず分からない。
倖枝は、ソファーで隣に座る舞夜からバインダーを受け取った。そして、舞夜の氏名の上に『法定代理人 未成年後見人 嬉野倖枝』と記入した。何度目の記入かは思い出せないが、すっかり慣れていた。
「これ書くのも、あとちょっとね」
ふと、舞夜の十八歳の誕生日が十月二十三日であることを思い出した。時期として、もしかすればこれが未成年後見人としての、最後の権利行使の可能性もあり得る。
「それは寂しいですね……。残りの時間で、沢山の物件買っちゃいましょうか」
「私としては嬉しいけど、不動産はヤケ買いするものでもないわよ」
冗談交じりに微笑んでいる舞夜に、倖枝は苦笑した。
かつてより、舞夜から擬似的な母親を求められていた。それは後見人となり、一層強くなったと感じていた。
しかし、あの峠で疑似母娘の関係は解消した。それでも、舞夜は現在もなお求めているのだろうかと、倖枝は思った。
「ねぇ……。あのさ……」
ここを訪れる際、倖枝はあることを決意していた。
神妙な表情の倖枝に対し、舞夜はきょとんと首を傾げた。
「……勉強、頑張りなさいよ」
だが、あまりにも酷であるため、口に出せなかった。
この少女に深入りした弊害だった。舞夜の境遇――実の母親との確執を、この目で見てきた。それを理解したうえで母親代わりを務めたが、もう終わった。そのうえ、恋人関係まで解消するのは、同情心が歯止めをかけた。
いや、いずれは解消しなければいけない。
しかし、現在すぐにでなくともいいのではないかと、倖枝は思った。
せめて、高校を卒業するまで――咄嗟に浮かんだ期間が、それだった。
それ以降はたとえどれだけ求めても、この少女が離れていく予感がした。高校生としての制限が無くなれば、さらに大きく飛躍するだろう。倖枝は、舞夜との未来がまるで視えなかった。
だから、それまで時間をかけて少しずつ『別れよう』と思った。
勿論、あくまで優先は咲幸だ。それが、咲幸と舞夜との間に立たされた倖枝の妥協案だった。
「言われなくても、頑張ってますよ……。ご褒美ください」
隣に座る舞夜が倖枝の肩にもたれかかり、ぽつりと漏らした。
その言葉が何を意味しているのか、倖枝は理解していた。性交はおろか、海でのデート以降、キスもしていない。
現在この場でキスをしたくないと言えば、嘘になる。
「誕生日プレゼント……ご褒美にとびっきりのやつあげるから、期待してなさい」
倖枝は誤魔化すように舞夜の頭を撫で、立ち上がった。
ついさっき誕生日のことを思い出したので、その場凌ぎの言葉だった。それでも、舞夜の誕生日を祝いたいのは本心だ。自分の時に祝われて嬉しかったので、返したい気持ちがあった。
「はい。とっても期待して待ってます」
舞夜が嬉しそうに微笑んだ。
その笑顔に、倖枝は内心で恐縮した。
期待するよう咄嗟に大口を叩いたが――何を贈るのか、現在は候補すら挙がっていない状態なのだ。
「……それじゃあ、この件は進めておくわね」
倖枝は売買契約書をバインダーからクリアファイルに仕舞うと、鞄を持って館を後にした。不動産売買に関して、舞夜は契約書への記名押印と金銭の準備までだった。直接の契約は、倖枝が代理人として行っている。
舞夜の誕生日まで、あと二週間。何を贈ればいいのか――ここへ来るまでとは別の悩みが、大きく圧し掛かった。
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