第30章『条件』
第078話
「おかえり……ママ」
その言葉とは裏腹に、倖枝は咲幸から強く睨まれた。歓迎の意思が微塵も無いことを理解していた。
今日が倖枝の休日であることを、咲幸は知っているはずだ。いつもは居ない時間帯を狙っているようだったが、今日は放課後、意図的にやって来た。
あの一件から、約二十日。久々に咲幸と顔を合わせるも、倖枝は素直に喜べなかった。
「……」
会いたい。話をしたい。かつてはそう思っていたのに、いざその機会が訪れても、言葉が浮かばなかった。
咲幸からの明白な敵意に怖気づいていることもある。そして――
「あいつ、今日学校休んでたけど……まさか、会ってたの?」
ついさっきまで舞夜とデートで楽しんでいたことが、後ろめたくもあったのだ。咲幸から疑われ、一層強くなった。
前触れもなく突然現れたのは、舞夜が学校を休んだからだろうかと、倖枝は思った。
「違うわ! 買物行ってたのよ!」
事実であるのが、幸いだった。倖枝は、スーパーマーケットで購入した食材の入っているエコバックを掲げて見せた。
咲幸はそれを眺め、腕を組んだ。疑いが晴れないように、倖枝には見えた。
「ふーん……。ていうか、そのネックレス何? ママ、そんなの持ってたっけ?」
しまったと思うも、遅かった。首からぶら下がったものを咄嗟に隠してしまうと、更に怪しまれる――冷静に下したその判断は、正しかった。
咲幸の年代であれば、このネックレスのブランドも価値も、おそらく知らないだろう。舞夜からの贈物だと、確証が持てないに違いない。
「これはこの前、買ったものよ」
だから、この誤魔化しが通ると思った。
――娘相手に嘘を塗り固めていき、倖枝は心苦しかった。
「さっちゃんこそ、他所に迷惑かけないで!」
このまま咲幸に責められ続けると失言するかもしれないので、倖枝は切り替えた。嘘まみれの苦しい状況を乗り切ろうとした。
咲幸には、言いたいことが沢山あった。その中でも、それが真っ先に浮かんだ。
娘が波瑠の家庭に居着いていることが、倖枝は波瑠に対したまらなく屈辱的なのだ。
「迷惑なんかじゃないよ! 大体、ママが悪いんでしょ!?」
「だったら、母さんを叩くなり蹴るなりしなさいよ! ウチでのことは、ウチで留めておきなさい!」
倖枝はそう口に出すも、違和感を覚えた。
これまで娘に対し、このような強い命令口調を使うことが無かった。娘が聞き分けが良かったこともある。そして、倖枝自身、そのように命じる資格が無いと自負していた。
しかし、現在はそうも言っていられない状況になっていた。
「さっちゃんは、まだ学生なんだから……学生の内は責任取れないんだから、お願いだから他所に迷惑かけないで……」
二十日間の鬱憤と――舞夜とのデートが、倖枝の背中を押した。
舞夜の前で『女』だったからこそ、咲幸の前では『母』で居られた。
「なによ、それ! 今さら母親ぶらないで!」
咲幸は聞き入れないどころか、怒りの感情を更に露わにした。倖枝もそうだが、隣近所など気にすることなく、大声を発していた。
怒鳴り声でそのように言われ――これ以上無い否定が、倖枝はただ悲しかった。
本来であれば、ここで怯み、涙を流していただろう。しかし、倖枝はぐっと堪えた。現在この状況で『弱さ』だけは絶対に見せたくなかった。
だから、咲幸の真正面まで近寄り――頬に平手打ちをした。
「……誰が何と言おうと、私はさっちゃんの母親よ」
おそらく、咲幸が物心ついて以来、初めて手をあげた。娘の頬を叩いた手が、震えたいた。
出来ることならば、このような真似はしたくなかった。やはり、その資格を持ち合わせていない自覚がある。
それでも、母親だからこそ、その否定だけは許せなかった。
「さっちゃんを傷つけて……本当に、悪いと思っているわ。ごめんなさい。それでも……母さんは、お腹を痛めてさっちゃんを産んだのよ。さっちゃんを育てる義務があるのは世界でただひとり、母さんだけよ」
厳密には、現在の咲幸の親権は倖枝の両親にあるため、倖枝にそのような義務は無い。しかし、惨めにも気持ちだけは持ち合わせていた。
娘相手に気持ちを口にして――かつ、手をあげたことも合わさり、倖枝の瞳から涙が溢れそうになっていた。悲しさと悔しさを、必死に堪えた。
咲幸は頬を叩かれても動じることなく、倖枝を睨んでいた。その瞳もまた、涙で潤んでいた。
「だったら――どうして!?」
咲幸は言葉と共に、真っ直ぐな瞳で訴えかけた。
どうして――気持ちを受け止めたのか。倖枝には、言葉の意図が理解できた。
去年のクリスマス。咲幸からの告白をもしも拒んでいたならば、互いに無傷では済まないにしろ、ここまで大事にはならなかったと思う。なるべく無傷で拒むために、倖枝は暫定的に受け入れることにした。その結果、ひとりの『女』として咲幸に心を許していた。
そう。弱かったからこそ、それを咲幸に預けようとしたのだ。
他にも、まともな母親として立ち回れなかったことも、舞夜と一緒に裏切ったことも――全て倖枝の『弱さ』が招いたことだ。
倖枝は咲幸から視線を外し、俯きたい気持ちだった。
「これからは……ちゃんと、さっちゃんの『母親』で頑張るから……」
何も言い訳は出来ない。だから、倖枝は咲幸から視線を反らさず、これからのことを口にした。
再び信用を得ることは簡単ではない。時間をかけてでも、償うつもりだった。
「……」
咲幸は倖枝を睨みながらも、早い間隔で瞬きを繰り返し――泣くのを堪える仕草を見せた後、リュックサックを背負い、倖枝の横を通り過ぎようとした。リビングから玄関に向かおうとした。
波瑠の所へ戻るのだと察した倖枝は、咲幸の腕を掴んだ。
「どこへ行こうっていうのよ。さっちゃんの家は、ここでしょ?」
「ママの顔、もう見たくない……」
「それじゃあ、私が出ていくわよ!」
この場を逃げようとした娘に対し、倖枝は怒鳴った。後先考える余裕の無い、感情的な発言だった。
「生活費はちゃんと出すわ! だから、あんたひとりでこの部屋使いなさい! それなら文句無いでしょ!?」
倖枝にとって現状、最も優先すべきは咲幸との復縁よりも――咲幸が波瑠の世話にならないことだ。その一心で、無茶苦茶な提案を口にしていた。
咲幸は怯えた表情で倖枝を見上げた。掴まれた腕を振り解こうと、抵抗はしなかった。
赤みを帯びた咲幸の頬が視界に入り、倖枝はようやく冷静さを取り戻した。己の提案を、ようやく理解した。
そして、これでいいんだと納得した。
肩にかけていたハンドバッグから、財布を取り出した。そこに入っていた現金三万円全てを抜取り、キッチンカウンターに置いた。
「……私達、ちょっと距離を置いて、お互い冷静になりましょう」
咲幸は立ち尽くし、俯いていた。
どのような表情なのか、倖枝には分からない。それを確認することなく、倖枝は玄関を出た。
――距離なら既に、充分に置いた。
咲幸との関係は改善されるどころか、拗れるばかりであった。
時間が解決する問題でないのは分かっている。それでも現在は、こうする他に無かった。
倖枝は自動車に乗ってエンジンとエアコンを点けると、運転席でひとしきり泣いた。
自分でも驚くほど簡単に自宅を飛び出したのだと、段々と後悔が込み上げてきた。しかし、母親として啖呵を切った手前、今さら引き返せない。
陰鬱な気分のせいか、現実的な思考が働いていた。
仕事の着替えや私物は、咲幸が学校に通っている時間に取りに戻ればいい。
問題は、寝床だ。どこかのワンルームマンションを賃貸するにしても、手続きや家具の準備等、すぐには生活を始められない。
それまで、ビジネスホテルで凌ぐことを考えた。積み重なる宿泊代は膨大になるが、仕方ない。
いや、金銭面ではどちらかというと嫌だった。だから、他の行き場を考えた。
――ここで同棲しませんか?
真っ先に思い浮かんだのが、まだあまり時間の経っていない、少女の言葉だった。
倖枝は涙を拭うと、自動車を走らせ、舞夜の館へと向かった。
午後六時半。館に到着し、インターホンを鳴らした。
『倖枝さん? どうしたんですか?』
「ごめん……。ちょっと入れてくれない?」
倖枝はまだ涙が止まらないため、鼻声だった。この情けない姿も、舞夜からカメラ越しに見られていると思った。
門が開き、倖枝は館に入った。
インターホンの応答といい、家政婦はもう帰ったのだろう。玄関の扉を開くと、舞夜が心配そうに出迎えた。
「帰ったら、さっちゃん居て……あの部屋、さっちゃんに譲っちゃった。なるべく早く
倖枝は涙を流しながらも――精一杯、おかしそうに苦笑した。
確かに、笑えるぐらい愚かな言動だったと思った。感情に走っただけではなく、一度断った舞夜の提案に乗るようなかたちとなったのだから。
しかし、舞夜は笑わなかった。返事の代わり、スリッパのまま倖枝に駆け寄り、正面から抱きしめた。
「慌てなくていいです。迷惑じゃないんで、お好きに使ってください」
倖枝は舞夜が、同棲を意識させてくると思っていた。それに反した当たり障りの無い言葉が、素直に嬉しかった。
涙がさらに溢れた。
「ありがとう……」
甘えたい気持ちはある。しかし、咲幸にあのように怒った手前、舞夜にはなるべく『迷惑』をかけられなかった。
しばらくして倖枝は泣き止むと、ドラッグストアまで自動車を走らせた。
替えの下着と洗面用具、そして夕飯のインスタントラーメンを購入して館へと戻った。
シャワーを借りた後、ひとりで夕飯を摂り、リビングを使わせて貰った。普段訪れた際は、豪華な内装から落ち着かない空間だが、現在の精神面では何も感じなかった。
舞夜は先に夕飯を済ませたようだった。倖枝を気遣ってか、夕飯に関して口を挟むことなく、自室に籠っていた。受験生なので勉強をしているのだと、倖枝はぼんやりと思っていた。
午後十一時。パジャマ姿の舞夜がリビングに姿を現した。
「倖枝さん、寝ましょう」
「そうね……。とりあえず、ここのソファー貸して貰える?」
「それ、普通に高いやつなんですけど……」
そう言われると、ベッド代わりに使えないと倖枝は思った。
かといって、この館は来客の宿泊を想定していないようで、ベッドは舞夜の自室以外には無かった。
「すいません。明日にでも、ベッド持って来させるので」
「そこまでして貰わなくてもいいわよ」
わざわざベッドを用意させるとなると、倖枝にとっての『迷惑』にあたるので、断った。
「ごめん……。一緒に寝てもいい?」
結果的に、これが舞夜にとって最も負担が掛からない合理的な方法だと倖枝は思った。
申し訳なさそうな倖枝とは裏腹に、舞夜は嬉しそうに頷いた。
「はい! 寝ましょう」
ベッドでふたり並んで横になると、倖枝は部屋の灯りを消して瞳を閉じた。結局のところ、素肌を重ねることは無かった。そういう気分や雰囲気では無いと思った。
舞夜と何度も素肌を重ねているが、同じベッドで就寝するのは初めてだった。
倖枝には慣れない部屋と慣れないベッドにも関わらず、『他所の家庭』を感じさせなかった。上品な居心地は、まるでホテルに宿泊しているかのようだった。
そして、すぐ隣に温もりがあったから――倖枝は久々に、ぐっすり眠れた。
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